アオアルキルキア

不定期連載

僕たちが今にする

 

これから書こうと思っていることは半年くらい前のことだ。

6月の半ば、仲の良い十何人かで旅行に行った。現代アートに泊まりに行こうと、と誘われたのだ。

アートに泊まる、なんてそれだけで僕は嬉しかった。

誰の作品であるとか、どうやって行くとかは二の次に「行く行く! ぼくも混ぜて!」と喜んでその遊びに参加した。

 

どうして半年も前のことを今書こうとしているのか。年が変わる間際に慌てて書いているようにしか見えないかもしれない。でもその通りだから仕方ない。どうしても今年のうちに書いておきたかった。

現代アートについて書くというとき、今の日付を付けられるのは、現在進行形で生きている人にしかできないことだ。特にパブリックアートと言われるものにおいては、僕が死んだ後もアートは飾られていると予測できる。現代の枠は、ヒトの一生ではおさまらない。現代アートの年代を2017年にするのは今しかない。

 

今年の現代アートは、僕にとって果たして、新しかったのか。

書くことで考えてみたい。

 

「光の館・House of Light」はアメリカ生まれの現代アーティスト/ジェームズ・タレルさんが2000年に発表した作品だ。

新潟県十日町にある、泊まれる芸術作品として、アートが好きなガールズにもボールズにも認知度の高いものなのだ。居住部の天井が開閉し、日の入りと日の出にあわせて光の表情が変わることが見せ場の作品である。

僕と同じように、好きな作家さんの名前しか覚えないようなタイプの人は〝出会い〟がないと知らないかもしれないが、タレルさんは、光の芸術家といわれているようだ。グーグルさんに訊いてみると虹色に光る立方体や切り取られた四角い光、月の満ち欠けのような光の軌跡などが次々と現れる。太陽光から、蛍光灯まで、人が光と思う明かりを様々な形で枠に入れて、あるいは元々ある光の枠を切り払い、人に向けて、その視線に光を当てている。

 

僕自身は昔、油絵を習っていたぐらいで、芸術に対してのアンテナはとても狭く、つい最近まで、イラストレーションとインスタレーションの違いもわかっていなかった。

友人から「あのタレルの、アレだよ!」と興奮した様子で伝えられた。

ふんふん、白魔導士みたいな称号の芸術家さんがいるのか、なるほどね、くらいな認識で、アート好きな友人たちの後を追うようについていった。

旅は最初から最後まで和やかだった。十人弱で、東京駅で待ち合わせ。何人かは新幹線の途中から、指定席を近いところで買っておいて合流と……団体客という形をとった僕たちは、みんながみんな、大人の修学旅行のような気持ちだったに違いない。

 

館につくと、僕たちが最初にそのアートからもらったものは、管理者の女性からの「説明」だった。詳しくは覚えていない。受けた印象を、要約して、セリフにしてみた(脚色という意味なので、誇張している部分もある)。

 

「雨が降ったら必ず天井を閉じてください」(作品ですからね)

「気を使って、利用してください」(作品なので)

「つまりあなたたちは、作品の中にいるのです」(最高でしょう?)

 

女性が語る言葉には最初から最後まで熱がこもっていた。

襖の障子一枚いくらという、弁償額までおしえてくれた。大事なことは再生できることではなく、障子を含めて作品なのだという警告だ。淡々とした約束事を話すのではなく、光の館が好きなのだという感情があった。勘違いかもしれないが、彼女は、光の館を〝説明すること〟が嬉しそうだった。普通の旅館にはない、情熱だ。彼女の説明を聞けば聞くほど、僕は少しずつその場にいることに緊張していった。

まずはこの緊張がどこから来るのか考えてみることにした。

 

たとえば少し古い旅館の、テレビを壊してしまったとする。そのテレビと同じ型のものはもうどこのお店にも置いていない。生産中止、あるいは廃盤になったテレビだったとする。弁償するとなったらどうするか。

新しい、別のテレビを買えばいい。同じものを買う必要はどこにもない。次の利用客が不便と思わなければいいだけのことだ。普通の旅館ならそれで終わる。けれど作品になると、同じ必要がある。再生しなければいけないのだ。壊してしまうともう一度、作らなければいけない。複製する手間が、修理という「労力」ではなく、再び、はじめからの「創作」になる。

というか、もっと厳密にいえば複製は不可能だ。どれだけ似せたところで、すでに同じものではない。逆にいえば誰かが障子に穴をあけるごとに作品は変わっているともいえる。それが作品という性質なのだと思う。

それはなんだか、珍しいし、ものすごく「緊張」する。

僕は仕事で、泌尿器科の手術で使う400万円のスコープを洗ったことがある。また別の仕事では川合玉堂の400万円の原画を壁に飾ったこともある。同じ額だったが、緊張はだいぶ色を変えていた。前者は今後何年タダ働きすることにならないといけないのか、という切実な恐怖。

後者は破損してしまった瞬間二度と、その作品が日の目を見なくなる、という未来への恐怖だ。もちろん弁償する切実な恐怖は同時にあるが、たとえば五歳くらいの子供がこの川合玉堂の絵を見て、天才画家になるかもしれない。

芸術作品の破壊は、その芸術が与える影響まで破壊するのだ。可能性まで消してしまう。

未来の機会を奪う恐怖は、芸術にしか存在しないように思う。

緊張して、当然だった。

 

管理者の彼女は施設の説明を終えると、天井の開閉についての説明にうつった。

壁に取り付けられた操作ボタンは思いのほか簡易的なものだった。彼女がボタンを押すとすぐに静かな重低音が聞こえ始めた。ぐおんぐおんという、機械音と共に、部屋の天井が大きく開いてく。部屋の中に鋭角的に光が差し込む。

大掛かりな〝プレ〟アクションに、すでに僕は感動しそうだった。

説明が終わり、誓約が終わると、僕たちが自由に宿を使う時間が始まった。男女の集団だったので、部屋割りをしたり、お風呂の時間を決めたり、ゲームを始めたり。修学旅行は、大人になっても変わらないようだ。

 

光の館の大きな売りは、天井が開くことだった。

さて、ようやく光の館について具体的に感じたことを書いていこう。

 

光の館の天井は、全部が全部なくなるわけではなかった。可動域を全開にすると、ちょうど大きな正方形が中心部に現れる仕組みだった。そのまま空を直視できるガラスのない窓が現れる。ガラスがないので窓というのは正しくない。正方形の穴だ。穴のまわりに大きな枠のような部分が残る。そこが日の入り日の出の一時間ほど前になると色を変える。光の館のメインプログラムである。

プログラムは控えめにいっても感動的だった。

朝と夜、日の入りと日の出にあわせて、太陽の動きにあわせて、踊るように天井の枠が姿を変えた。もちろん穴の空いた正方形の部分も色を変えていく。それは単純に太陽が位置を変えていることで起こる毎日の現象だ。毎日夜空で起こっていることに過ぎない。夜更けや夜明けになるほど空の色は変化する。そのことが、枠の色が変わることで、不思議な変化と思わせる。

なるほど、光の魔術師とはこういうことか。

太陽が動くって、いわれ(みせられて)みれば、不思議なことだったのだ。

タレルは大げさな枠を使ってそのことを僕たちに気づかせる。

これは煌びやかな光魔法か。魔法をかけられたことなんてないけど、そんなふうに、たとえたくなった。

光のグラデーションは僕たちの目に錯覚を起こさせる。

立体的なはずの空間が次第に平面に見えていき、浮かんでいるような気持ちになっていく。感覚が曖昧になり、視界がどこか虚構めいていく。

 

十数人がみんなして仰向けになって、色を見ていた。みんなでワイワイと騒ぎながら見つめていたが、今でも思い出せるやりとりがある。見ている人によってその色が違ったことだ。

誰かが緑といったものが、僕には緑に見えない瞬間があった。

曖昧になった視界それぞれで、みんなはどんな色が見えていたのだろう。

言葉を交わすほど、どんどんと不思議な気持ちになった。

 

僕たちはそれぞれが見ている世界を永遠に交換できない。

それはとても切ないことのように思える。

でも違う色を見ていると、誰かがいうことで、僕たちは違う色があることを知る。切ないこと以上にとても、大切なことではないか。共感とはそういうことではないか。僕たちの見ている世界は違うが、同じ部屋で仰向けになれる。同じ映画館に行ける。漫画本を貸し借りすれば、同じ本を読める。

違う感じ方があること、共に有ることを知ることが「共有」だ。それが太陽や月の光であっても、同じことがいえたのだ。

 

 

ところでさきほど、僕はわざと ー光の館の大きな売り、と書いたのだが、違和感があっただろうか。この表現は、アートではなく利用を呼び込むコピーとして使われる。

旅館を探すときに、天井が開く宿に条件を絞って探す人は普通いるだろうか。

 

タレルさんの作品は生活の実用と芸術についてのことも考えさせられた。

日用品は消費するし、部屋であれば劣化もする。道具は使えば使用感が出る。永遠に新しい旅館など存在しない。

では「芸術」旅館はどうか。

 

車のサンルーフが開くように、天井が開いて、外の光がそのまま入ってくる。剥き出しの空が直接見える。天井にも窓がある部屋はどこかで見たことがあるが、天井が動いて、まるで部屋が皮をめくられるような部屋は他にないだろう。どうしてそんな家がないのか。

生活するうえでは、そんなことする必要がないからだ。

 子供のころ、サンルーフのある車に乗ったときにはわくわくしたものだ。屋根は普通、開かないから屋根なのだ。元々あるものをひっくりかえす。アートは発明そのものだ。

けれど、大事なのは車の屋根も、館の屋根も開く必要がないことにある。

光の館はお風呂場も作品だった。

光を楽しむ造りになっていたが、集団でそこを利用するにはあからさまに不便だった。この気づきも大事なことのように思う。

便利と芸術は一緒に生活しにくいのだ。

オシャレは我慢、とどこか似ている。

芸術は元々、生きていく上では必要ない。

生活に必要なものを優先したり、暮らしを快適にする工夫はどこかみっともなさがあったり、かっこ悪かったりする。でも別にそれでいい。僕たちは、そこで暮らしていかなければならないのだから。便利を優先するのは当たり前のことだ。

光の館で、普段の何気ない生活に光を当ててみると、感動する。でも、毎日使うとなると話は別だ。暮らしやすいほうがいい。天井を閉め忘れて夕立に降られたら、畳みがびちょびちょになる。そんな家に暮らしたくはない(僕はここで暮らしたら、絶対いつか閉め忘れて家を出る日があるだろう)。

毎日、感動なんてしたら疲れてしまう。実用と芸術は別物だ。毎日生活しているお部屋は便利にして、休みになったら、都合を合わせて好きな人と共有するぐらいがちょうどいいのだ。

これは芸術に泊まれることを否定してるわけではない。

アートと生活は別物だからこそ、発見があるといいたいのだ。

 

僕たちは光の館というアートを一日使った。僕たちが泊る前と泊まったあとではもう、あの光の館はどこか形を変えているかもしれない。

だって僕たちは確かに一日、あの宿を使ったのだ。僕たちが与えた使用感が、たしかにあの館には加えられた。管理者の女性がいった「貴方たちは作品の中にいる」というのは、そういうことではあるまいか。

空間の空気や雰囲気は人の出入りで簡単に変わる。町それぞれに色があるのと同じことだ。便利とか不便とかではない。僕たちはそこにいるあいだ、光の館に影響を与えている。現代アートになっている。

それは僕たちの可能性そのものではないだろうか。

 

一泊二日のこの旅では他にもいくつかのパブリックアート、美術館にも行った。新潟県をタクシーや電車でうろうろしたのだ。全てを書くことはしないが、集団でアートを見ることにも普段とは違う刺激があった。このことも最後に書き加えておきたい。

複数人で列をなしてアートを見ることの利点は、単純にいえば視点が増えることだ。発見の量が、格段に違う。細かくいえば、認識、空気、そのそれぞれを、複数の人間が同時に受け取り、かつその場で交換し合うことによって、発信する作品側の可能性が普段よりもずっと広がっていた。

いくつか見た中で、僕は全く分からなかった作品を仲間の一人が「いちばん好きだ」といった。僕はそのことにすごく驚いたと同時に、その人をとても知りたくなった。アートを通して、彼女の知らない部分を発見したともいえる。

アートは元々たくさんの可能性を持っている。その可能性は、知覚しないと気づけないものがたくさんある。たくさんの人で見て、たくさんの話をしたほうがもっといい。興味の幅はどんどんと広がっていくだろう。

僕ははっきりとそう感じた。

 

できたら次に行くときも、仕事も経験も全然違う人を集めたい。

光の魔導士が作った施設を、普段やサラリーマンだったり科学者だったりするパーティで集まっていくのだ。様々な能力を持った人たちで冒険すれば、僕たちは経験値がたくさんもらえるし、レベルもあがるだろう。

宝箱だって、あるかもしれない。

集団でアートに行けば僕たちはレベルが上がる。

間違いない。僕は確かに自分のレベルが上がる効果音が聞こえたくらいだ。

 

表現は、何かに乗せている、媒体がある。手段といってもいい。

僕はその手段に、枠の中に登場することができるもの、むしろ枠の中に見る側が入って初めて存在する芸術が、現代アートではないかと思っている。

僕たちが登場人物になれる芸術があるのだ。

なんてことはない。思い切っていってしまおう。

現代の芸術は僕たち自身だ。

僕たちが、今ある芸術を、現代にするのだ。

2017年、僕はまる一日分、現代アートだったのだ。

たたたったったっ、たったったー!(レベルが上がる音)。

 

 

 

 

 

 僕たちが続くあいだにアートする生きているのは今だけだから