アオアルキルキア

不定期連載

つむじを見るように

まだコロナではない日記。

今日も仕事は休み。

 

書くことがなくてもいいように、アオアルキルキアで始めたから、五十音順でタイトルをつけていくことにした。それで今日はつの日。釣りか、つむじが思いつく。「ツィゴイネルワイゼン」は、とんでもなく異色な映画。素晴らしいけど、それについて書くにはまだちょっと、知力と体力がない。ツォオルコフスキーは、有名な宇宙工学者。よく知らないので、やっぱり却下。釣りならいくつか思い出がある。でもつむじの話にする。

 

僕は自分のつむじを肉眼で見たことがない。だいたいの人がきっと一緒。写真や鏡で見る人はいると思う。でもそれを肉眼というのはちょっとずるい気がするので、認めない。

 

男の人でも女の人でも、わかってくれる人はいるだろうけど、つむじは、生え際だから、自分の頭が、きているか、どうかがわかる。

 

きている、っていうのは、あれ。そう、禿。

 

自分では見られない部分だから、いつのまにか、禿げているかもしれないと思うととっても怖い。たまたま後頭部が撮られた写真を見たとき、ショックを受ける。だいたいは誰かが撮ってくれた写真。だから、誰かから知らされる形だ。

 

え、ちょっとこれ、やばいんじゃないかな。どきどきする。ときめかないほうの、高鳴り。心臓に悪いほうのどきどき。どうき、きつけに救心、のほう。

 

たまたま後頭部が写真に写るのは、必然的に、久しぶりになる。しょっちゅう後頭部を撮られる人はあんまりいない。自分の後頭部でも、久しぶりに見るから、やっぱり状況が変化している。本当は徐々に薄くなっているけど、間がないので、一気にきたような気持になる。だからより、どきどきする。心筋梗塞みたい。縁起が悪い。すでに写真に写っているのに、自分の肉眼でもう一度確かめてみたくなる。それはやっぱり、不安だから。光の加減でそう見えるだけかもしれない。色々といいふうに考える。肉眼で見たいけど、見ることはできないので、ズルをして見る。

 

スマートフォンを頭上にもっていってカシャってボタンを押す。スマートフォンは頭上にもっていっているので、どう見えているのかはわからない。手元に持ってくると、ちょっと位置がずれていて、よくわからない。やり直し。タイマーに設定して、また撮る。

 

自分の頭部を自撮りするなんて、なんだか情けない。全然生えない。インスタとかに載せられない。でも自分には切実なことだから、仕方ない。何度か繰り返して、いい角度でつむじがとれる。そうしてみると、やっぱり前よりずっと少なくなっている気がしてくる。

 

やだやだ、禿げたくない。どうしよう。どうしよう。

 

その日は思う。カフェインの取りすぎがよくないとかきくよね。からいものがだめとかいうよね。ちゃんと洗えてないのかな。シャンプー変えてみようかな。

 

写真を撮って確かめたのはいったいなんだったのか。余計不安になるだけだった。それでいて、三日くらい経つともう、きていたことを忘れてしまう。生活も何も変わらない。しばらく時間がたって、再び、唐突に後頭部を見る瞬間が来る。そうして慌てて、不安になる。

 

自分の背中も肉眼では見えない。だけど、別に背中は気にならない。そもそも自分の顔だって、人から見た顔を知ることは永遠にできない。だけど顔は、見たい人は見ているし、見たくない人はむしろ頑なに見ない人。何かしらのきっかけで、見せられてから見たくなるのは、つむじくらい。

 

自分ってそういうもの。

 

肉眼で自分を見ることはできない。鏡やカメラ、ズルをすれば見ることはできる。ぼさぼさの髪では営業もできない。社会人なら家出るとき、鏡を使って、自分を見るのもマナーの一つ。お化粧する人や、容姿をよく保つことが仕事の一部である人なんかは、何度も見ないといけない。

 

でも、その人たちも、きっと毎日、自分のつむじを見てはいない。

 

自分のつむじが見えたとき、はじめて「え」って、不安になる。道具を使って、なんとか自分を確かめる。

 

 

 

あ。

 

これは似ている。

 

ものを書くときの、主観と客観。

 

 

 

あるとき突然、自分の一部を、突然、他人から、知らされる。え、こんなに進行していたの? ハッとして、慌てて、人から知らされた時点ではまだ、良いふうにとろうと思う。そのあと自分で状況を確かめる。理解して、愕然とする。そうして、二、三日なら気にできる。少し書き方を意識する。でもすぐに忘れてしまう。

 

頭部が禿げるだけならいいけれど(全然よくない)、自分の書くものは禿げないように、忘れないように、意識する。

 

常に自分の頭上にカメラを置いておく。何かが進行したら、すぐに気がつける。

斜め上から、見るように。

 

自分のつむじを見るように、物を書く。

 

そうすると、自分の抜けている部分が、わかるのだ。