アオアルキルキア

不定期連載

「杜子春」で泣いた話

まだコロナではない日記。

 

今日もリモートワークだった。
今日は遠隔操作がすごく緩慢だった。上司によると、あらゆる企業でリモートワークをやっていることによるもたつきであるそうだ。今後も続くのだという。国はリモートワークや家でできる娯楽を推進している。しかし、ゲームがバカ売れすることで、誰もが買えなくなっていたり、こもりがちにおこる弊害だったり、インターネットに遅滞が生じてしまうのなら、日本全体の生活様式をオンラインに移行していくことは容易ではなさそうだ。推進するのであれば、その環境づくりが問われる。

 

さて仕事の話はこのくらいにする。今日は仕事の後、オンラインで読書会をした。芥川龍之介読書会の続きだ。読書会の課題本は「或阿呆の一生」であったが、何の因果か、今日の日記のタイトルは「と」ではじめる、としている。

 

そうして僕は、なにか、「と」でかけるもの、と考えて、芥川龍之介の「と」で始まる小説を思い浮かべた。

  

僕は、子供のころから、小説を読めたわけではない。

二十を超えて、大人になってからようやく本を読み始めた。

 

だから、他の、文科系の友達、本の虫といわれて育ってきた知人たちとは感じた年齢、経験した年齢が違っている。

様々な読書体験の中には、小説を読んでいたら、涙を流してしまった、という経験がある人もいるだろう。僕にもある。

僕が小説を読んで、生まれて初めて泣いた小説は、ニ十歳を超えてから、小説として読んだ「杜子春」だった。

たまらなかった。泣いてしまった。教養的な、寓話のような扱い方であったから、子供のから本を読んでいた人は、もっと早く「杜子春」に出会っていた人は、泣いていなかったかもしれない。

僕はたぶん、大人になって、初めて、読んだから泣けたのだ。

学生時代、ゼミの先生が「ドストエフスキーは二十歳前に読んだほうがいい」といっていた。ドストエフスキーの文学にある毒がまわるのは二十歳より前であるらしい。

 

その話を聞いたときにも思った。

読書体験と、その時の年齢はかなりその後の本の読み方に影響を与える。

 

これまでにどんな本を読んできたか、またその本をどのタイミングで、何歳のときに読んだか、というのが完全に他人と一致することはありえない。

二十を超えて「杜子春」を初めて読んだ人だって、僕以外にもいるだろう。だが、それ以外の本も、全く同じタイミングで出会っているということはあり得ない。

何か文章を書くとき、読んだものの影響がありすぎて、自分の書く文章が、自分の文書ではない気がする、オリジナリティがない、不安になってしまう、という人がいる。あるいは「これは何々のパクリ」などといわれることを恐れている人もいるだろう。

けれども、オリジナリティは、個々人が経験した読書体験の影響により必然的に生まれると僕は考える。

なぜなら、同じ本でも誰もが読んだタイミング、読んだ年齢が違う。そうするとその影響が必然的に違ってくる。また、とある本を読んだタイミングだけではなく、読んだ本の種類、当人がよく選択するジャンル、その全ての影響下で新しい文章は生まれる。

それはすでに、オリジナリティになるのではないか。ということはつまり、作品が生まれるはずではないか。

  

杜子春」を二十歳で読んで泣いた僕が書く文章は、それだけで、独自性があると思っている。こうしてわざわざ、日記として、とで始まる単語として「杜子春」をあげることができて、生まれて初めて泣いた小説だと、書けることが独自性を証明してはいないだろうか。