アオアルキルキア

不定期連載

呪われたくない

まだコロナではない日記。

今日も公休。
今日は夕方から夜にかけてオンライン読書会をした。オンラインで毎週のように誰かとしゃべっていて、なんならゴールデンウィークも仕事なのにオンラインで予定を入れまくっている。僕は緊急事態宣言が出てからの方が圧倒的に忙しくなってしまった。
課題本はポール・オースター「サンセット・パーク」オースターさんの小説を読むのはこれが初めてだった。登場人物がリアルで、書き方にも面白みのある部分が多く、読んでよかったと思えた。共感するか、というとそうでもないが、文学は共感できるかどうかがすべてではない、ということはもういうまでもなく、僕はずいぶん前から、自分ならどう書くか、といったことをどうしても考えてしまうので、そういう形の感想しか言えなくなっている。
ここからネタバレを少し。
僕はこの小説を、主人公マイルズが、いわば精神的な引きこもり状態、呪われた状態、自分で自分にかけた呪縛から、いかにして解放されたか、あるいは受け入れるしかない、と悟ったのか(二行で要約できるような小説ではない)が描かれたものだと考える。彼にとって、家族との再会というか、和解というか、わだかまりを解く儀式が終盤に訪れる。そのクライマックスの書き方がよかった。

三つ、いいと思ったところをあげる。
一つには、父親との再会の前に母親との再会を入れたこと。(そのシーンもまた、僕にとっては際立ってよかった。小説が戯曲調に書かれていて、本来は戯曲の書き方であるものが、小説の書き方として成立していたことの面白みがあった)。
もう一つ、その後の父親との再会は、すでに過去のことにように書いていたこと(あれから息子とは何回会った、というふうに、直接的な場面にしなかった、直接的なクライマックスにしなかった、そこで盛り上げて終わり、というふうにしなかったことがよかった。)
最後の一つは、父親との再会で終わるのではなく、読み手が「ああ、全てはうまくいくのかな」と思った頃合いを見計らって突き放す、本当のクライマックスが、すごく、僕はびっくりした点。なるほど、こういう書き方があるのか、となった。

文学の普遍的なテーマに、家族との呪いがある。その呪いは、家族からかけられるものもあれば、自分で自分を縛る類のものもある。
僕は「サンセット・パーク」の、どの登場人物も共感しがたかったし、特別好きなキャラクターもいなかったけれど、唯一、自分がマイルズだったら、いやだな、と自分を重ねた瞬間があった。
マイルズは呪縛から逃げるために家を飛びでるわけだが、影ながら、父親はずっとマイルズを見ていた。せっかく逃げているのに、お父さんは目で追っていたわけだ。ここを読んでいるときに思った。
僕の両親は、マイルズが両親と会わなくなるより前の年のころから、うまくいかなくなって、父親とはもう何十年と会っていないわけだが、それで、僕の父親が、どこかで僕を見ていたら嫌だな、と思ったわけだ。まあ、もしそうなら永遠にそれは知らないままでいたいな、と。マイルズに共感した、というよりマイルズみたいな目にはあいたくないな、と思ったわけだ。僕は父をなんとも思っていない。心底どうでもいいので、勝手に生きて死んでくれていい。これぐらいの気持ちであるので、思われていた、なんてことがわかってしまうと、なんだか、僕は後じさりをしてしまう。ぞわっとしてしまう。

けれどこれも、僕が僕にかけている呪縛の一種なんだろうか。

今日、ツイッターであなたがジブリのキャラクターならこれです、みたいな診断メーカーがタイムラインに流れた。いくつかの設問があって、選択していくと、あなたはこのキャラクターですと、教えてくれるやつだ。
やり始めたら、五問目ぐらいで、とんでもない設問があった。
僕が魔術師に呪われた、どんな呪いか選べ、という。
診断をやめてしまった。

生きていくことは、何かの呪いや呪縛と戦っていくことではないか。
だからこそ、物語で呪われたものが解放されることは、人生のメタファーになり、共感できる人がいるのだろう。
けれど現実の多くが、自分で呪いを選んでいるわけではない。自分では選べなかったものだからこそ、苦しいのではないか。そもそも選べるなら、何一つ、呪われたくないはずではないか。

自分がどんなキャラクターであるかはわからない。貴方はこのキャラクターですと、断言されることもまた、いうなれば呪いになる。
僕は今後も、呪われたくない。すでにもう、いくつかの呪いにかかっているとは思う。解放してくれる魔法使いは現実にはいない。どんな呪いも、どうするかは、その人自身に「かかっている」。
そんなことを考える、夜だった。