読むたびに 「動物のお医者さん」の感想に添えて
まだコロナではない日記。
今日は土曜日なので、お仕事はお休み。
日中はオンラインで「動物のお医者さん」読書会をした。
佐々木倫子さんの漫画が、僕は大好きだ。少し前、ゴールデンウィークの最中、漫画アプリで「動物のお医者さん」全巻が、一気に読めるというサービスがあった。久しぶりに、夢中で読んだ。もう何回も読んだのに、また何回読んでも、笑ってしまう。
そのときに、友だちと、あの回が好き、あのキャラクターが好き、という話で盛り上がった。みんなで感想を言いあったら面白いんじゃないかと、皆を誘った。読書会はとても盛り上がった。
さて、このあとは日記ではなく、全部「動物のお医者さん」の、僕の感想。
「動物のお医者さん」は平和で、キャラクターがとても面白い漫画だ。獣医学部なのに、ネズミが苦手な二階堂。周りを巻き込んでいつも迷惑をかける漆原教授。特異体質がありすぎる菱沼さん。神経質な菅原教授。片付け魔の小夜ちゃん。本当に変なキャラクターしかいない。彼らが巻き起こすドタバタに笑わずにはいられない。
動物も人間も、変に美化されていないところが、とてもいい。
美化されていないが、動物たちのセリフはちゃんとかわいい。
人間の声は、ちゃんとふきだしのなかにある。でも動物たちの声はふきだしの外だ。これは、本当にそうしゃべっているわけではないことを示しているのではないかと思う。「そういうことを思っていそう」という、見方なのだ。それがいい。動物に感情があることは、少しそばにいればわかることだ。けれど、ときどき、勘違いをしている人がいる。動物の気持ちや言葉がわかる、という人だ。同じ人間でも、国が違うだけで言葉は通じない。それどころか、同じ日本人であっても、相手の心なんて、わかるはずがない。それでも僕たちが話をして、わかりあおうとしたり、わかりあえたと思えたりするのは、相手がどう思っているか、想像するからではないか。ふきだしの外にある言葉には、その想像力がある。僕たちは読みながら、その想像を追っている。そこにいるキャラクターたちが想像している声に共感できるから、笑ってしまうのだ。
SNSで、動物の声を代弁したようなセリフをつけて、写真を上げている人がいる。
僕はああいったものがとても苦手だ。
「動物のお医者さん」と何が違うのか。
あそこには、デフォルメされた可愛さしかない。そこにちらつくのは、見せたい、という人の声だ。
私の猫、かわいいでしょ?
私の犬、すてきでしょ?
そのセリフは全て、飼い主のセリフなのだ。
思って「いそう」のいそう、が大事。こういっている、にしてしまうのは傲慢だ。
想像ではなく、そういっていてほしい、という欲にすら見える。
「動物のお医者さん」にあるものは適切な距離感だ。
朴訥な犬。意地悪な猫。凶暴な鶏。臆病な馬。そこにある個性は、性格から立ち上がる、彼らのキャラクターに寄り添った声なのだ。かわいく描こうとは、していない。本当の観察がある。その観察によって、僕たちは動物たちをかわいく思えるのではないか。想像するから、愛くるしい、と微笑んでしまうのではないか。
僕はゲラゲラと笑いながら、何度も何度も彼らに会いに行く。
何度読んでも、彼らの声を想像するので、楽しめる。