アオアルキルキア

不定期連載

アフターコロナは現実

緊急事態宣言が解除された。「やっと」だろうか、それとも、「もう」だろうか。

途中から、まだコロナではない日記と、頭に「まだ」をつけて書いていたのは、コロナに罹患したと思う瞬間があるかもしれなかったからだ。とりあえず、僕はかからなかったと思っているけれど、人と会わない間に患って、そのまま治っていたかもしれないし、まだ体内にいて、明日突然悪化することだって、ありえないとはいえない。わずかな可能性の一つであっても、不安はやはり、完全に否定はできない。

「緊急事態宣言の期間中は、毎日ブログを更新する」と僕が宣言してから、数えてみると四十七日あった(緊急事態宣言の期間は、四十九日間となる)。どうせなら始まった当日からやっておけばよかった。僕の間が悪いのは昔からだ。


日本政府はひたすらに頼りなかった(現在もだが)。

僕が働いている会社は、探り探り体制を変えていった。僕自身は、だらだらと疲れていった。すべてを過去形にして書いてはいるが、本当に過去のことになるのは、きっと、ずっと先だろう。

 

フィクションみたいだ。

本を読んでいる人たちが、言っている。

近未来SFディストピア

――あるとき人類は、正体不明のウィルスによって甚大な被害を受ける。人々は外に出ることを禁じられ、室内での画面越しのコミュニケーションが当たり前になった。――

それがフィクションで、物語ならば、結末は何だろう。

ラブストーリーで、愛を知るのか。新世界で生き抜くサクセスストーリーか。数百年に及ぶ壮大なスペクタクルか。主人公が理由なく苦しむ不条理か。あるいは、ウィルスにかかった人たちがゾンビなって、ウィルスにかかっていない人たちと衝突することになるような話だろうか。今、そんな物語を書くことは、不謹慎といわれるかもしれない。フィクションは昔からあった。いつだって、タイミングが、言葉を不謹慎にする。
また現実は不条理以外に、何も語れない。だから、別の結末を書いてしまうことが意味を含んで不謹慎に見えてしまうのだろう。
物語であれば、愛する人が亡くなることで愛を知る、というラブストーリーは涙を流せるかもしれない。しかし僕たちがその当事者であるのなら、読む人を感動させるために必要な死なんて絶対にいらない。ただただ、生きていてほしかったと願うはずだ。
現実にヒーローが現れて、政府が頼りないからといって立ち上がり、歴史が変わることがあったとしても、今生きている僕たちには「すでに」間にあっていない(少なくとも、もうたくさんの方が亡くなった)。

それでも人が、作り話を読むのはなぜだろう。

不幸な話であるほど、忘れえぬ物語となるのは、いったいどうしてなのだろう。

満たされているときは不遇な物語を選んで、日々が苦しいときは、明るくて幸せな物語が欲しい、という人がいた。その人はきっと今、間違いなく、幸せな物語を望んでいるはずだ。

これから先、しばらくはたくさんの人が同じように、フィクションの中だけでも幸福を求めるかもしれない。コロナ禍によって、作家はこの後、ハッピーエンドの物語しか書けないのではないか。そんなことを考えた。

でも、全ての物語がハッピーエンドであったなら、小説も文学も進化しなかったように思う。本の中にある不幸、不条理、悲劇が、読む人の心に与えるものは、常に現実との対比ではないのか。読んだ人だけが持つ現実とのコントラストが、悲しいということだけではない情熱を、何かしらの救いを与えるのではないか。

 

今日までの現実を決して忘れてはならない。

これから何かを書こうというときは、読む人間にも、僕たちと同じ現実があったこと、僕だけにあった現実、他者だけにあった現実、全てを想像することを、決して忘れてはならない。「もう」緊急事態宣言は解除されたが、「まだ」現実は続いている。

生きている限りフィクションのそばにはずっと、現実があるのだ。