アオアルキルキア

不定期連載

エンドレスサマーヌードを真冬に

今日は出社した。世間は三連休の最終日、コロナ禍の中の、成人の日。

成人した人たち、おめでとうございます。

僕が二十歳のころは、成人式に行かない人もたくさんいたが、成人式に行けない世界を想像したことはなかった。義務ではなく、行くことも行かないこともできる自由は、それが自由でなくなったときにはじめて、選択することの重さが浮かび上がる。

僕は行かなかった。

行かなかったことを後悔はしていないが、きっと今年行けなかった新成人は云十年と年を経て、彼らの子どもが成人したときに「私たちはいけなかったから、せめて子供たちは行かせてあげたい」というような思いに駆られるかもしれない。

何かの選択に迫られ、それがどちらを選んでもいいものであったとき、後悔しないためには、それが選ぶことができなくなる状況、そういう未来も想像して、選ばなければならない。でもその選択の多くが、その時に選べることの重要性には気づけないものだ。誰も彼もが選んだあとも悩み、考えながら生き続ける。

 

僕も選ばなかった未来、をときおり想像する。

少し前に大ヒットした映画「ラ・ラ・ランド」(デミアン・チャゼル監督作)はそういう映画だ。クライマックス、別の未来を〝思い出す〟ような構造になっている。もしもあのとき、あの選択をしていたら……でも僕たちの今は、その時々で選択したからこそ、存在している。僕は今の生活を不幸だと思っていない。ただ時折、あったかもしれない未来を〝思い出す〟。思い出すというのは過去のことであって、それは思い出すとは言わない、と誰かに怒られるかもしれない。でも僕はそういう感覚に陥る瞬間がある。「ラ・ラ・ランド」はその感覚を描いた映画なのではないか、と思っている。(同じ監督でいえば、「セッション」の方が好きですが)。

 

人は後悔する生き物だ。それは小さいことから大きいことまで。

たとえば朝、バスを待っていて、なかなか来ないので歩くことにしたのに、歩き出して数メートル、バスはやってきて、乗ったほうが早く着いたな、と思ったら「もう少し待てばよかった」と思うだろう。それは個人の後悔であるだけ、まだマシだ。

人との関係で生じる後悔の方が、人には重く、深いところまで沈んで残る。

たとえば誰かと小さな口論をして、それがきっかけで喧嘩別れ、疎遠になってしまって、「あのときあんなことをいわなければ」ということがある。

僕がいつまでも思い出してしまう〝選ばなかった未来〟も、誰かにいった言葉を取り消したいという思いが大きい。放った言葉もまた、やりなおすことはできない。その後悔を認めたくないのは、関係性が続いたかもしれない、と思うからだ。仲が良かった人との関係性が続いていたほうが、離れてしまった今より良く見えるのも当然だ。

でも離れたからこそ、今の生活があるのも事実だ。

その今を愛せるのもまた、自分しかいない。

 

傷つけた言葉は、正解ではなかったかもしれない。でも自分を含めて、誰も傷つけない、そんな生き方は果たして可能なのか。人の心はわからない。目と目で通じ合えたらどんなにいいだろう。そうでないから切ない。何をいえばいいのかがわかれば、苦労はしない。

 

真心ブラザーズの歌に「ENDLESS SUMMER NUDE」という曲がある。わざわざ真冬に、サマーなどという楽曲は季節感ゼロだが、表情だけでは相手が何を考えているのかわからないという難しさを含めた切ない歌のように思ったため、引用する。

――何か企んでる顔/(中略)ウソだろ 誰か思い出すなんてさ/目を伏せて その髪の毛で その唇で いつかの誰かの感触を 君は思い出してる――

 

好きな人とじゃれ合うように遊んでいても、その人の表情から読み取れることは何一つ当てにならない。貴方が今何を思っているのか。僕にはわかることは一つとしてない。なんて切ないことだろう。たとえ慎重に選んだ言葉でも、全てが伝わることはない。

 

――今はただ 僕ら二人で通りすぎる その全てを見届けよう 心のすれ違う瞬間でさえも包むように――(作詞:桜井秀俊さん、倉持陽一さん)

 

どんなに努力したところで相手の心がわかることはない。選んだ言葉の上で僕たちは生きていく。ならば、すれ違うことも含めて、その選択を、今の自分たちが愛してあげるしかないのではないか。

 

僕は新しいニ十歳に何かをいえるほど立派な人間ではない。もしも一言何かをいっていいのなら、これから選ぶ道を、貴方の選択を、誰よりも貴方が愛してほしい。

 

 

(本日の東京の感染者数一二一九人。七日連続で、一日の感染者数が千人を超える。NHKニュースより)