アオアルキルキア

不定期連載

JOYという呪文

今日は仕事もお休み。

 

一日中寝ていた。

夕飯を食べながらテレビをつけると、日本を百人に喩えたら云々という番組がやっていた。池上彰さんという方が社会の仕組みをわかりやすく説明する番組のようだった。最初から最後まで見たわけではないので良し悪しについて何も言えないが、こういう番組もいいのではないか。僕は勉強が苦手だ。わからないことを聞くと恥ずかしいと思って勉強しなければ、という気になる。こういう番組にも、池上さんのように世界を要約してわかりやすく説明することにも、危機感を覚える方もいるだろう。勉強している人はそれでいい。ただ勉強が苦手な人は、見たらいい。単純にありがたいはずだ。何かを考えるだろうから。

 

ひと昔前に流行した「世界がもし、一〇〇人の村だったら」(池田香代子さん著/C・ダグラス・ラミスさん訳マガジンハウス刊)という本を思い出した。著者や出版社を併記したが、これは書かれたもの、というより、世界がその発想に至ったお話、という要素が強かった。ずっと昔に読んだのでうろ覚えだが、実家に戻ればちゃんと本棚にある本だ。

僕や私や君が、たった一〇〇人の村で生きるとしたとき、個人の、一人一人の多様性を考えることができるかもしれない。僕は異性愛者だが、同性愛者の友人もいる。たまたま、僕は異性愛者なだけだと思っている。そういうふうに思えたのは、この本に書かれたことが大きいかもしれない。一〇〇人の村であれば、一〇人は同性愛者なのだと書いてあった。なるほど。今思えば、昔のクラスメイトだったあの子もそうだったんではないだろうか。腹を割って話せたらよかった、などと思った。

 

世界は常に変化している。今、再びこの喩え方をすれば、変わっているものもあるだろう。世界が何人の村であろうと、僕は僕の目で感じたことを、勉強していかないといけない。ずっと寝ていたくせに、そんなことを考えた。

 

僕はテレビを見なくなった。見るとすると、ニュース番組ぐらいだ。子供の頃はテレビばかり見ていた。大人たちがテレビをあまり見ないで過ごせることが信じられなかった。でも大人になってくると、テレビを見る以外にもすることが増える。テレビは家族のものなのかもしれない。子供のものかもしれない。ならば、勉強できるテレビは大切に思える。物にもよるが。

 

菅総理大臣は先日「緊急事態宣言が決定しました」といった。ニュースキャスターは「発令が発表された」といった。日本語が曖昧になる。もう緊急事態宣言を別の単語にした方がいい。でもこれも、テレビを見て思ったことだ。では本当はなんというのか。

緊急事態宣言を広辞苑で調べてみたりする。

すると、緊急に付随する言葉がたくさんあることを知った。

緊急権、緊急行為、緊急財政処分、緊急地震速報、そのあとにあった。

緊急事態(宣言とまでは載っていなかった。)一、緊急の対策を講じなければいけない事態。二、大規模な災害または騒乱などに際し、治安維持のための特別措置を必要として、内閣総理大臣が布告を発する事態。(広辞苑 第七版 岩波書店刊より)とある。

二のところを読むと、「緊急事態」に今僕たちが置かれている状況が内包されている。本来なら緊急事態が宣言されました、でよかったのではないだろうか。

世界と同様に、言葉もまた変化する。広辞苑の第七版は、少し前、十年ぶりの大改訂として本屋さんで売っていた。第八版が出されたとき、どう説明されるのか。ぜひとも覚えておきたい。

この勉強もまた、テレビがなければ、総理大臣やニュースキャスターの発言を見なければ思わなかった。やはり、勉強になる。くだらない番組も多いが、そこから受け取る個々人が、何をするか、によるのではないか。それをテレビの楽しみかた、嗜みのようにしてみてはどうか。

 

YUKIさんというアーティストに「JOY」という楽曲がある。軽快で、染みこむようにメロディアス。歌詞の中に出てくるわたしと君と世界、生きることの楽しさ、切なさ、愛おしさを歌った歌だ。以下に歌詞冒頭を引用する。(作詞:YUKIさん/蔦谷好位置さん)

 

――いつも口から出まかせばかり喋ってる/イエス・ノーどちらでもないこともあるでしょう/いつだって世界はわたしを楽しくさせて/いつか動かなくなる時まで遊んでね――

 

メディアは時に嘘やでまかせ、はっきりしないことも発信する。それを楽しいと思えるかどうかは、僕たち次第なのではないか。そこがいつの時代の、なん人の村でも。

 

(本日の東京の感染者数一八〇九人。)