アオアルキルキア

不定期連載

ムーンライトを探す

本日は出社した。

 

残業もしたので、会社を出たときはもう夜の八時を過ぎていた。会社から最寄り駅まで歩いて、電車に乗り、僕の家の最寄り駅を降りて、また歩いた。その間、街はずっと暗かった。飲食店はシャッターが下りて光がなく、静かなものだ。まるでゴーストタウンのようだけれど、人はいる。街頭もある。ただお店だけが静かで、電車からそれぞれのお家に向かって帰る人々が通りすぎていく。僕も当然、その内の一人なのだが。町は静かだったけれど、明るさはそのままだったので、なんとなく、空に月がないか、探しながら歩いた。見つけられなかった。それは天気のせいなのか、時間のせいなのか、ビルのせいなのか、わからない。探して、見つけて、どうするのか。月に吠えるっていうのはこういう気持ちなのではないか、などと思った。

 

「月に吠える」という、近代詩を勉強する上では欠かせない詩人、萩原朔太郎(一八八六―一九四二)という人の有名な詩集がある。萩原朔太郎という詩人は、僕が学生だった頃、近代から現代への詩の変遷に触れる授業があって、そのときに存在を知った。同じ講義の中でもう一人、高村光太郎(一八八三―一九五六)という詩人のことも知った。

でも今日は「月に吠え」たくなる気持ちを知りたいので、朔太郎さんのことを書く。

「月に吠える」という名前のお店が東京の、新宿にもある。俳優が「月に吠える」というバンドを組んだりもしている。きっと僕が知らないだけで、色んな人が、ことあるごとに、モチーフに使い、吠えたり、吠えなかったりするのだろうと考える。

その言葉の並びは、それだけで大きな発明だったのだろう。

吠えるというのは普通、犬がする動作だ。人がそういう気持ちになるのはどうしてだろうか。僕の気持ちも、本当にそういう気持ちなのか、確かめるような気持で、詩集「月に吠える」から月に吠えている場面の詩を探す。(詩集の中に「月に吠える」という詩はなかった。)

以下は萩原朔太郎の詩集「月に吠える」の詩の引用。

「悲しい月夜」という詩を見つけた。読んでみる。

 

ぬすつと犬めが、/くさつた波止場の月に吠えてゐる。/たましひが耳をすますと、/陰気くさい声をして、/黄いろい娘たちが合唱してゐる、/合唱してゐる、/波止場のくらい石垣で。

いつも、/なぜおれはこれなんだ、/犬よ、/青白いふしあわせの犬よ。

 

吠えてゐるのは犬だが、最後に出てくる俺も、吠えてゐるような気がする。なるほど、こういう気持ちなのかな、などと考える。先ほど思った僕の気持ちと似ているような気もするけれど、違うような気もする。

 

また、別の詩を見つける。

「ありあけ」という詩を見つけた。

 

ながい疾患のいたみから、/その顔はくもの巣だらけとなり、/腰からしたは影のやうに消えてしまひ、/腰からうへには、藪が生え、/手が腐れ、/身体(しんたい)いちめんがじつにめちやくちやなり、/ああ、けふも月が出(い)で、/有明の月が空に出で、/そのぼんぼりのやうなうすらあかりで、/畸形の白犬が吠えてゐる。/しののめちかく、/さみしい道路の方で吠える犬だよ。

 

ながい疾患というのはまるで、いま、コロナ禍にある僕なのか、などと考えてみる。その顔は蜘蛛の巣だらけ、マスクをしている僕だろうか。ここから、詩は体中が侵され、畸形へと近づいていく。僕は今、蝕まれて、身体が、めちゃくちゃになっているんだろうか、と思ってみる。在宅勤務で眠れない毎日を思ってみる。月を見て、コロナ禍に侵されていく僕が、吠えたくなったんだろうか。それはなんてさみしくて、おそろしいことだろう。

詩は、ときどきおもしろい。でもときどき、怖くなってしまう。

そうやって喩えているのはあくまでも僕。勝手に怖がっているのもの僕。でも喩える言葉は、そういう側面も持つのだと、急に思い出された。

 

さて、ところで僕は、どうしてこんなことをしていたのかというと、月に吠えたくなった気持ちが知りたくなったから。怖くはなったけれど、「悲しい月夜」も「ありあけ」も存在する月に向かっている詩だった。僕は月を見つけたかったけれど、見つけられなかった。

だから、もしかしたら、どっちも全然、違う気持ち、なのかもしれない。

詩ではないところで、この気持ちを探してみる。

 

バンド、フジファブリックに「ムーンライト」という楽曲がある。以下は歌詞の引用(作詞:志村正彦さん)

 

――今日はなんか不思議な気分さ/大きなテーマを考えたいのさ/そう例えば人類の夢とか/想像は果て無く続く/ムーンライトが照らした――

 

ああ、僕は、大きなテーマを考えたかった、だけなのかもしれない、などと思った。

 

(今日の東京の感染者数一二四〇人)