アオアルキルキア

不定期連載

パラダイスシティトーキョー

今日も出社した。

 

最近、引っ越そうかと考えて、仕事の合間にいろんな部屋の間取りを見ている。

自分が払える家賃はこれくらい。自分の職場はこのあたり。綺麗な部屋がいい。クローゼットが欲しい。駅の近くがいい。僕の部屋にあるものは、あれとこれ。運んだら、どこに何を置こうか、考える。

 

今の部屋を引っ越さなくても、生活できなくはない。むしろ十分、充実している。将来のことを考えたら、そのお金を貯めた方がいいのかもしれない。でも新しい部屋に変えたら、経験する世界が増えると、ついつい想像してしまう。たとえほんの少しの移動でも、何かが起こるかもしれない。新しい気配、街から聞こえる音楽、窓から見える風景、新しいストーリー。僕は間取りを見るだけで、その部屋の地図を広げるだけで、ワクワクする。近くのスーパー、本屋さん、その街にしかない飲み屋さん、花屋さん、公園、ロータリー。至る所にたくさんある、まだ開いていないドア。僕はおそらく、その誘惑に勝てない。

 

初期費用というものは大金だ。僕の雀の涙が、僅かな貯金が減ってしまう。僕はいろんなものが上手じゃない。貯金もその一つ。もういい年だから、少しは堅実になったほうがいい。病気になったら? 何かあったら? 将来のこと、考えている? 大人なら、きっとちゃんと答えられる。でも僕は、言葉に詰まる。困ってしまう。もういい年なのに。いい年、ってなんだろうか。

 

江戸っ子は宵越しの銭は持たない、という言葉がある。その日に得た収入は、その日の内に使い切る。宵を越えない。それが江戸っ子の習性。そういうことをきくと、東京生まれで東京育ちの僕は、江戸っ子だから貯金が苦手なのだと開き直ってしまう。なんて、たちが悪い。

でも今は令和だから、誰も僕を江戸っ子だとはいわない。

今の人たちが、「東京生まれ東京育ち」という人にかける言葉は、‶シティボーイ〟。オシャレな言葉になったものだ。びっくりするけど、僕のようないい年でも、そういわれる。いわれると、たまらない。僕がボーイなら、本当の少年をなんと呼べばいいのか。恥ずかしくてたまらない。

でも、ふと気がつく。

シティアダルトだとか、シティマン、みたいにはいわない。シティに結び付くのはボーイやガール、少年少女だ。今の言葉だけではない。昔の言葉もそうなのだ。江戸っ子にも、実は子どもがついている。

なるほど、これはなんだか、発見した、ような気になる。

こういうことは、考えられないだろうか。

都育ちは昔から、大人になることができない。みんな子供のまま年をとる。世界を知らないまま、年だけ大人になる。それは、少し危うく見える。でももはや、そこまで来たら、ずっと、いい年の子どもでいい。都会は子どもでできた街。そうも思えてくるだろう。

 

バンド、ミツメにParadiseという楽曲がある。以下に歌詞を引用する。(作詞:川辺素さん)

 

――誰一人戻らない/それはいつも聞いていたので/何もかも ケリを着けたら/鍵をかけずに 行ってみたくて/それは 甘い誘い夜の中の/甘い誘い君を――

 

僕が引っ越そうと考えている街も、東京。東京から東京へ。そんなのに、意味なんてない。新しい世界なんてない。でもどうしてだろうか。その誘惑に、勝てない。

都会は煌びやかで、何でもある。

子供のまま年をとったシティっ子にはパラダイス、なのだと思う。

 

(本日の東京の感染者数 一一七五人。全然パラダイスではない、むしろ地獄だが)