アオアルキルキア

不定期連載

題詠 朝焼け

 

題詠 朝焼け

 

たった今生まれたのではないかと錯覚するようなことがある。

山を登り山頂から見下ろした圧倒的な自然の気配に、息をのんだとき。予想もしない展開で全身に鳥肌がわさわさと立つようなお芝居を見たとき。文字を追いながら、別の誰かの話であるはずがそこにいる主人公の感覚とたしかに同化し、体感していることに気づいたとき。人の気配のあまりしない始発電車の車内が、朝焼けの光に包まれたとき。

 

頭のいい人たちにそれをいうと、きっと「それはカタルシスというやつで脳のどこどこにある何それという神経物質が」「云々」「カンヌン」「うんちく」「パーチク」と説明してくれるだろう。だがどうもそれでは納得できない(きかなくても、きいても)。そもそも僕が思った感覚を、あなたは共有できるはずがないのに、説明できるはずがないではないか。

僕は確かに、感動するたびに「生まれなおし」ているのだと、いいたい。そういう、感覚がするのだ。

 

生まれてから、それなりの時間がたっているはずなのに、いまだに思う。

実は今まで見ていたものも、今まであった出来事もすべてが、今、目の前で起こったことのための出来事であったんじゃないかと。

自分の人生のすべては伏線だった。この感動の瞬間のためだったと。

 

そうはいっても人は何度も生まれない。

一回生まれたら、そのあとは「生きて」はいても、くりかえし「生まれて」いるわけではない。毎日お母さんの体からでてくるわけではない。

一人の人間が、胎内から出てくるのは一回だけ。出たりはいったりはしない。それはその通りなんだが、ほかに言いかたが思いつかない。

僕はやっぱり、何度も何度も生まれているのだ、ということにしたい。

またそういう話をすると別の頭のいい人たちが現れて「人間の細胞は60兆個あって」「それが細胞分裂をくりかえしているのだから」「ナントカ」「ワンサカ」「ぶーたれ」「ベータレ」……。

 

毎朝、起きると太陽が昇っている。

それもまあ、改めて考えると、一日一日が生まれなおしているんではないか、と思わないでもない。自然に感動して、僕自身がそのたびに生まれなおしているのは、自然が生まれなおしているのに、つられて、生まれなおしているんじゃないか。

もらい泣きみたいな感じで。

もらい生まれなおしみたいな感じで。

 

いやいやいや、太陽っていうのはそもそも動いているのではなくて。天動説と地動説が「コペルニクスが」「ぺらぺら」「ぺしゃくちゃ」

頭のいい人たちのことは考えるのに忙しくて、ちょっとうらやましいけど、ちょっとうっとうしい。

でも頭のいい人たちの発見を今さら知って、感動し、生まれなおしたりすることもあるから、ちょっと愛おしくもある。

 

 

 

おしえよう君が生まれる前のこと世界最古の朝焼けのこと