アオアルキルキア

不定期連載

毎日死ぬことにした

久しぶりに日記を書く。

 

昨日、引っ越して、初めて会社まで歩いていった。

会社からは一駅で行けるようになったので、試しに、歩いてみたくなった。

朝から天気がよかった。

グーグルマップで会社の住所を目的地にして、僕の部屋の新しい住所を出発地に設定した。経路が出て、僕の現在地が青い点になった。

音楽も聴かず、ただ向かった。

しばらく歩くと、子どもの鳴き声が聞こえた。ふと目を向けると、少し先にベビーカーを押す女性がいる。ベビーカーには赤ちゃんの他に、お姉ちゃんと思われる小さな女の子も乗っている。双子のベビーカー、というわけではない。ハンドルという言い方でいいのかわからないが、女性が握っている取っ手の部分、赤ちゃんが寝ているベッドの背中に当たるところで、女の子も同じようにハンドルを握って、器用に立っている。仁王立ちという様相に近い。小さな子供が竹馬でもしているかのように見える。が、恐らく足を置けるスペースが、ベビーカーの車輪の上に備え付けられているのだろう。お母さんが押し、お姉ちゃんは立ったまま、がしっとハンドルを握っている。赤ちゃんはただ泣いている。

ごろごろごろごろ、とタイヤは音を立てていた。

鳥の声が聞こえる。僕と同じようにスーツ姿の男性の歩く足音、ロングコートを着た女性の足音、色んな人が、同じ道をそれぞれの歩幅で進んでいった。きっとベビーカーを押す女性はお母さんで、保育園に向かっている。わかりにきったことかもしれない。でも違うかもしれない。すれ違うだけではわからない。

十分ほど歩く。

道なり。今まで見たことのない店もあったが、チェーン店もあった。初めて歩く道なのに迷わない。スマホは便利だが人を賢くはしない。自分で、十字路に何があるか、どんな道を歩いたか、記録するように眺める。

曲がり角から若い大学生と思われるカップルが出てきた。男の子も女の子も首から大きなカメラをぶら下げている。男の子も女の子もファッション誌からそのまま出てきたような風貌。女の子はカメラ以外にも首から何かぶら下げていた。カメラに使うものなのか、おしゃれな小さいポシェットなのか、判断できない。平日の朝早く、二人で並んでいるのだから、どこか近くに、どちらかのおうちがあるのかもしれない。ラブホテルに泊まったのかもしれない。男の子が、道端で風にあおられて膨らんだ、透明のビニール袋にカメラを向けていた。それは路傍のゴミだ。女の子は穏やかな顔で、男の子を見ている。僕は二人の名前も、年齢も何も知らない他人なので、ただ通りすぎる。五秒くらいの観察で、いったい彼らの何がわかるのか。それでも、幸せそうに見えた。ゴミにフォーカスを当てる彼らが幸せでなく、何が幸せなのか。

自分が学生だった頃もある。同じように好きだと思う女の子と一緒に朝を迎えて、街を歩きながら、その時に書いている小説の話をしたりしたこともあったはずだ。

僕が今それをしていないのは、もう学生ではないから。二十代ではないから。若くないから。その全部。年をとったというだけで、それぞれが経験した幸せがあるはずだった。それなのに、今、自分が一人であることに苦しくなる。キラキラとした朝を迎えられていないことがつらくなる。ゴミがゴミにしか見えない。そのことがさみしい。

ベビーカーを押す女性は僕より若そうだった。お姉ちゃん、赤ちゃん。そこにある家族を想像する。一人住み替えをして、いったい何かが変わるのか。会社に住所変更の申請を出した。結婚・離婚・その他と選択肢があり、変更前の名前や変更後の名前を書く欄もあった。住むところが変わっただけだ。自分でもどうして引っ越したくなったのかよくわからない。

 

もしかしたら、スーツを着て歩いている僕を見て、ベビーカーを押す女性が、僕を幸せそうだと思ったかもしれない。ごみ袋をファインダーに収めた彼や、その彼を見つめる彼女の方が孤独を感じていたかもしれない。

すれ違うだけでは誰のこともわからない。

僕は、僕とすれ違いたい。

ドラえもんコピーロボットという道具がある。人間のような形をした大きなロボットで、鼻がボタンになっていて、そこを押すと押した人とそっくり同じような行動をするという。

それを一日だけ借りてみたい。鼻のボタンを押して、朝、通勤途中の道ですれ違うように歩かせる。その僕を見て、僕はやはり苦しくなるんだろうか。幸せそうだと思うんだろうか。

すれ違いたいというのがそもそもおかしい。

自分が自分を見ることができないということに他ならない。すれ違う必要などない。自分を見るべきなのに、正視できない。この先、誰からも愛されない気がしてしまう。ポジティブなJポップが聴けない。それは全部自分を愛せないせいだと、頭ではわかっていても、実行できない。

 

「幸せになって欲しい」と友人たちによくいわれる。いわれるたびに考えるが、自分にとっての幸せがなんであるのわからない。誰からも嫌われたくないし誰のことも傷つけたくない。自分を含めて傷つきたくないせいで皆に好きといってしまう。だがその好きがみんな一緒なので、もはや好きになるということが何だかわからない。反対に、この人こそ自分を受け入れてくれる、この人のことが一番好きなのだ、これが愛に違いない、本当に違いないと心を込めて向けてみるが、そういう気持ちがすべて見透かされているせいで誰からもその言葉を信じてもらえず、受け入れられることはない。傷つきたくないので、受け入れられなかったことを受け入れられない。悪循環というよりはもはや、途中で投げ出した負の連鎖をいくつも抱えて違うマイナスをまた作りだす。ああ、この人もダメだった。結局僕が好きになる人は僕を好いてはくれないと思う。セカンド童貞どころじゃない。何回目の童貞を、あと何回繰り返したらいいんだ。あほか。

 

昨年の今頃は、わりと前向きに、自分にも自信が持てていたように思うが、最近になってまた、自分の家族をいよいよ愛せなくなって、なんだかすぐに暗い方面へと引っ張られてしまう。婚約までしてうまくいかなかったことや、自分の家族がろくでもないと、愛だとか幸せだとかが自分にはこの先一生たどり着けない別の世界の出来事のように感じてしまう。あらゆることに自分の自信がなくなる。

 

引っ越しまでの間、せこせこと本棚にある本をつめた。本を入れた箱は重くて、一箱でも持ち上げるのが大変だった。

ベッドは二つに分解できた。足もついていて、取り外すこともできるものだ。ロフトのある部屋にもっていくと決め、ロフトの上にベッドを運べればいいな、と考えた。でも梁があるので、つっかえてしまう。梯子から直接そのベッドを運び上げることはできない構造になっていた。下の部屋から、梯子を使うことなく二メートル程上のロフトまで持ち上げないといけない。踏み台を使えば何とかなるだろうと高を括っていた。しかし、大きくて重いベッドのパーツを、肩より上へ持ち上げるのは僕には至難の業だった。僕には力が全然ない。当日、引っ越しのお兄さんたちと協力して三人がかかりでなんとかやれたらいいや、と考えないようにした。

でも引っ越し当日。

お兄さんたちはいともたやすくそれをやってのけた。

一人がロフトに先に上り、もう一人が下からそれを持ち上げた。まるで豆腐を持ち上げるみたいに軽そうに見えた。お兄さんたちは、踏み台なんて、発想すらなかっただろう。二人ともすごく背が高かった。本をたくさんつめた箱も、引っ越しのお兄さんたちは二箱ずつ運んでいた。信じられなかった。一箱でも、僕は持ち上げるのがやっとだった。

 

僕は、男性でいる自信もいつもない。男性の力に直面すると「誰のことも守れない」と激しく思う。体を鍛えている男の子に「蹴ったら折れそうだ」などといわれたこともあった。ただ傷つくだけで、筋トレをしようとは思わない。自分を変える努力ができない。情けない。若いとき、暴力を振るわれても、やりかえすことができなかった。自分が父親になったとき、子供を守れるのか。そんなことまで考えると、そのたびに死にたくなった。

それは、考える必要のないことかもしれない。

「女性は別に守られるような存在ではない」「それは傲慢だ」という声があったとしても、僕にとっての女性はいつも弱く、泣いてばかりいる母の姿がこびりついている。母の「旦那のせいで不幸になった」「結婚しなければよかった」「おまえたちさえいなければよかった」「私はすべてを犠牲にしてお前たちを選んだのから、お前たちが私を幸せにしろ」という呪いがどれだけ年をとってもぬぐえない。はきそう。

 

さて、こういうことの全部が最近特にうっとうしいので、僕は一度、死ぬことにした。

皆さん、今までありがとうございました。

 

これは遺書でした。

太宰治に憧れすぎだろ。ばかか。

僕は死んだ。歯を磨いて寝る。

 

明日から、もう母も知らない。兄も知らない。婚約破断したことも知らない。傷つけた子も傷つけられた子も知らん。畦道も吉祥寺も婚約指輪も美術館もミッドナイトも朝帰りも過去は全部もう知らん。そいつは死んだからな。僕には関係がない。

僕はもうすごいな。

いきなり三十五歳だ。今から起こることは経験でできたことじゃない。勘でやれる。すごい。どこの世界に、いきなりスーツ着て会社に行ける赤ちゃんがいるか。天才じゃねえか。すげえ。一回死ぬとすげえ。ベビーカーで泣いていた赤ちゃんが僕だった。新しい母とすれ違っていた。母は別に誰だっていい。

僕は目に見える世界から、いくらでも生まれなおせる。

僕は幸せそうに見える必要はない。生まれたばかりだ。まだ何も知らなかった。これから誰かを好きになるかもしれない。朝起きてゴミを写真に収めちゃうかもしれない。いきおいで環境保護活動をはじめちゃうかもしれない。なんかよくわからないまま持ち上げられて立候補しちゃうかもしれない。筋肉ムキムキの百八十センチの引っ越しのお兄さんにもなれる。僕はこれから人を愛せる。自分を愛せる。何故なら俺は明日生まれるからな。幸せかどうかわからなくて当然だ。愛なんてわからなくて当然だ。僕はまだ、それを知らなかっただけ。僕はただ、新しいだけだ。

しんどくなったら何度でも死ねばいい。また生まれればいい。むしろ毎年死ねばいい。毎年死ぬなら毎年結婚したっていい。おお、すごいなこれは。貯金なんかいらねえ。宵越しの金は持たねえ江戸っ子だからな。夜明けまでの命は持たねえ。毎日死ねばいい。そうすればどうだ。すごいことに気がついたね。毎日死ぬなら、電車ですれ違っただけの会話もしたことのない女の子を愛したっていい。そこで人生が終わるならその愛は本当だ。これはやばいのか? 画期的なのか? それとも末期か? 毎日一回遺書を書こう。ポジティブなのかネガティブなのかわからねえ。だがもはやどうでもいい。毎日が命日で毎日が誕生日だ。すごい。不死身だ。僕は不死身になった。どんとこい、不遇。どんとこい、無常。ハロー、玉川上水。グッドモーニング心中。グッドナイト自殺。そうして明日はいつも、はじめまして、世界。

明日、人生がまた、はじまる。

 

(本日の東京の感染者数 二七五人)