アオアルキルキア

不定期連載

サンタクロースな大人たち

 

クリスマスがまもなく終わる。サンタクロースは僕の家に来なかった。むしろもう、自分の家のサンタクロースになっている年齢でもおかしくない。そういうことを考えるとなんだか、ヒヤッとしてしまうので、ピーターパンが「楽しいことを考えるんだ」といってくれたら、空を飛べるみたいに、サンタクロースで楽しいことを考えたら、プレゼントまではもらえないにしても、何か、こういう夜に「もらえる」んじゃないか、などと期待して、妄想することにする。

 

ということで、自分をサンタクロースにしてみよう。

サンタクロースという夢のような存在を、現実的に、事細かく、でも、例えば僕には何不自由ない財力があるとして、なんでも用意できるとして、夢のように考えてみよう。

まずは彼の(僕の)、着る服を用意する。

彼の服は赤い布なので、赤い糸が必要だ。

世界中の男の子と女の子の小指についた、運命の赤い糸、をひたすら集めて縫い合わせると実は彼の服になるのだ。

そういうことにしてみよう。

まあ「なんてロマンチックなんでしょう」と聞こえやしないか。

実は彼の赤い服は、結ばれた恋人たちがもういらなくなった、たくさんのたくさんの、赤い糸でできた服なのだった。その恋人たちの中には、悲しいけど別れてしまうカップルもいたかもしれない。でももう縫っちゃったから、縫製しちゃったから、サンタクロースの服になったあとだから、そんなことは大したことではないのだった。

 

次に彼の相棒トナカイくんはどうしよう。

「と、中井くん?」

「ん?」

「サンタクロース、と、中井くん?」

ということで、知り合いの中井くんを連れてきた。トナカイは懐くかわからないし、正直財力があっても面倒だ。ソリと中井くん。白い袋と中井くん、なんとかと中井くんと、とりあえず繰り返していたら中井くんはいつの間にかトナカイくんに聞こえやしないか。聞こえないな。そもそも知り合いに中井くんはいなかった。もう、トナカイ面倒だな、車でいいか。お金があるからタクシーが手っ取り早い。

そうか、中井っていう名字のタクシーの運転手を探せばいい。

サンタクロース、トナカイくん、がそろったぞ。

 

あとはなんだろう。

白い袋はドン・キホーテで買うか。どうしよう、早くも飽きてしまった。

っていうか配る子供たちどうしよう。不法侵入はいくら使えば許されるんだろう。っていうか彼らの望みを知らなかった。大変だ、今から望みを訊いている時間はないのでむしろ誰がもらっても困らないものにしようか。

なんだろう。

金か、

金なら欲しいものなんでも買えるからな。

財力あるしな。

中井くんという名前の運転手が乗ったタクシーを猛スピードで走らせて、窓から金をばらまこう、赤い糸でくるまれた僕が、金という金をクリスマスにばらまこう。

するとどうだろう、

夜道を歩いているのは酔っ払いだとか、駆け引きの最中のカップルだとかで、子どもなんかがいやしない。

「金だ!」

「おい、あのタクシーから金がでてんぞ!」

うごめく大人たちが、ひたすらに金を広い集めながらタクシーを追いかけて、車にはねられてしまうかもしれない。聖夜が血にまみれてきた。イエス様の血か。パンと葡萄酒はお金にくらんだ大人たちの血と肉か。大変だ。全然楽しいことじゃない。どうしてこうなった。

最初は確かにロマンチックだったのに……。

 

 

そもそも最初に「サンタクロースが来なかった」と、嘆いているのに、サンタクロースがくることではなく、サンタクロースになることを妄想したのはどうしてだろう。

 

大人になるとサンタクロースに会えなくなるのは、「与えられる」ことに、夢を見られないからかもしれない。与えられるなら何でも欲しいと言いつつも、そんなことないと、実感として身についてしまっている。むしろそんな相手が現れたら怖いと思うのが普通の反応だ(過剰な見返りを求められないかとおびえる)。目が覚めて、自分の家の靴下に大金があったら、やくざの金だろうかと、恐ろしくなって使えない。

つまり大人は、与えられる相手との信頼関係がないと、無条件にもらえないのだ。

働いて、自分で得られることが増えてくると、無条件に「与えられる」ことに戸惑う。もらったものが、どのように入手したかの仕組みもある程度知ってしまっている。だからこそ見返りに何かを与えなければいけないのではないかと、勘ぐってしまう。恋人同士がするのはプレゼント「交換」であって、片方がもらうのではない。(片方だけがすることもあるのだろうが)。誰かに与えられる、というのは間に友情だったり、愛情だったり、共有している感情、信頼関係が必要だ。

 

ついでにいえば、僕自身がほしいものは、自信だったり、それこそ、信頼できる誰かだったりする。それは、与えられて得るものではない。自分が動いて、獲得するものばかりだ。

見返りもないよ、と銘打ち、なんでもくれる人がいたとして、素直に欲しいものをお願いできるのは、子供だけだ。そして子供にはその資格がある。

たくさんのものを「与えられて」、子供は大人になる。

与えるものに責任を持てるのは大人だけだ。

赤い糸を縫う大人も、ドン・キホーテで働く人も、タクシーの運転手でも、電車でも、自転車でも、プレゼントをのせて、運ぶことはできる。誰もがトナカイもサンタクロースも両方やれる。夢なんかではない。大人は誰でも与える人になれる。大人たちはだれかのサンタクロースになりえる。恋人のサンタクロースでもいい。

もし本当にそうならば、無責任に与えるのではなく、与える人との信頼関係を築いて、怖がらせることもなく、責任をもったサンタクロースになりたい。

 

たぶんずっと先のことだが。

むしろ来るのか、わからないが。

そういうサンタに、わたしはなりたい。

(なんだ、それ)

メリークリスマス。

 

 

 

 

目が覚めて靴下の中覗いたら「愛してます」と書かれた手紙