アオアルキルキア

不定期連載

エッチな遺品

およそ三十年前になる。僕がまだ幼稚園に通っていたころ、叔父が亡くなった。
当時叔父は、長野の祖母と二人暮らしだった。葬儀を終えて、僕の母と叔母、叔母の夫らで遺品整理をすることになった。といっても僕は子供だったから、形見分けをするものと、処分するものを選ぶことの権利もなく、見ているだけ。叔父は独身で女気のない生活だった。叔父の部屋から数冊のエッチな本が出てきた。全裸の白人が、でかでかと載った写真集が数冊あって、叔母の夫がおもしろがって僕に見せてきた。
「けいちゃん、見ろよ。いやらしい裸だぞ。興味あるか?」
母や叔母が怒って、すぐに取り上げた。アダルトビデオと思わしきものもあった。さすがにそれを映すことはしなかったが、叔母の夫がにやにやとした顔でごみ袋に入れていた。

そのことは僕の中で事件といってよかった。忘れることはできない。叔父は突然亡くなったので、まさか自分が見ていたエッチな本やアダルトビデオを、家族に見られるとは思いもしなかっただろう。僕は叔父にとって見られたくないものを見ているのだと感じた。自分が叔父であったら恥ずかしくてたまらないだろうと不憫に思った。
幼い僕が、死んでしまうことがどういうことか、わかっていたかはわからない。今でも理解できているかといえば怪しい。それでも、わからないなりに、辱めにあっていることはわかった。生まれて初めて、羞恥心といった感情が発生したのかもしれない。あるいは共感性羞恥か。故人のプライバシーに侵入してしまった。亡くなった人の部屋は残された人が整理するしかない。誰かがやらなければいけないことであっても、躊躇われた。

僕も当然というか、人並みに、女性の体には興味がある。
高校生ぐらいのとき、クラスメイトはパソコンでエッチな動画を見ていたけれど、僕の家は貧乏だったのでパソコンもなかった。十八歳未満は買うことができないものを、家から遠い小さな本屋さんに買いに行った。ちゃんとしたところだと年齢を聞かれてしまうので、元々そういうエッチなもので生計を立てているところにいった。購入したエッチな本は、親に見つからないように隠しておいて、家族が出払っているときに見ていた。
そこまでは普通かもしれないけれど、その後が、もしかしたら人とは違っていたかもしれない。僕はエッチな本を部屋に取っておくことができなかった。だいたい一回見たら、捨ててしまう。
隠した後、とてもソワソワするのだ。
高校には自転車で通っていた。車通りの多いところを通るたび、線路の前で警報機の音を聞いているたび、想像した。今、このタイミングで死んでしまったら、僕が買ったエッチな本を家族に見られてしまう。自分の性癖が家族に知られてしまう。いやだ、死んだ後も死にたくなる。耐えられない。恥ずかしさが爆発する。そうやって死ぬかもしれないと思った瞬間すべてを捨てないと正気を保てなかった。買ったその日は隠しておいて、三日後には捨てていた。

それは今も実は変わっていない。見るものがエッチな動画になっても、今度はネットの履歴に残ってしまう。このパソコンを解析されたら、僕が見たエッチなものを知られてしまう。いやだ、死んだあとが怖い。痛み、世界から存在が消えること、そういった恐怖とは別次元のプライド、見栄のようなものなのか。エッチなものを見ることは、健全なことで、誰でもやっていることかもしれない。それでも何にも知られたくないという思いがある。昔書いたポエムを死んだ後に読まれたらヤバイ、という気持ちと同じ。見られたくないものの一部だ。いつ死ぬかわからないから、その瞬間、痕跡を消しておかないと不安になる。

まじめな文体で、いったい何を書いているのか。
自分が死んだあとなんて、自分に知りようがない。本当はどうでもいいはずなのに、死んだ後も人からの視線を気にしてしまう。自意識が過剰だ。家族や知人に知られるのが嫌なのかもしれない。そうだ。それなら全然知らない人が遺品整理をしてくれたらいい。そういうサービスを使おう。きっとある。知らない人が、残すものを選んでくれる。恥ずかしいものは見なかったことにしてくれる。それを希望しよう。
自分の葬儀のとき、遺影にはこの写真を使ってほしい、だとかこの音楽を流してほしいとか、エンディングノートを先に用意していく人がいる。終活というらしい。単純にこのお墓に入れてほしいとか、海に散骨してほしいとか、そういうこともあるだろう。
三十半ばでそんなことを考えるのは早すぎる? いや、僕は想像せずにはいられない。
だからもう書いておく。遺産は(ほとんどないだろうけど)、家族で分けてほしい。使える臓器は人にあげてほしい。死体はサバンナやアフリカあたりに捨ててくれ。日本の山でもいい。獣や虫に食べられて、土に還れば、無駄がない。世界を巡る感じがする。それで、自分の部屋については、そういう痕跡を、一切たどらないでほしい。可能なら住んでいた部屋ごと燃やしてほしい。いったい幾らかかるのか。どんなマニアックな性癖なのか、と余計勘繰られるかもしれない。一般的な範囲内に収まるとは思っている。だけど、それでも知られたくはない。
不思議だ。死んだ後の希望、いったい何を守るのか。それを守った所で自分は知りようがない。羞恥心とはまた違うのではないか。何か単語が一つあればこんなに長々と説明する必要もない。死後の尊厳を守らせてほしいということを、略して死尊守(しそんしゅ)といってみる。
「僕の死後は死尊守でお願いね」(ひどく、いいにくい)
「わかった。業者に頼むね」すぐに伝わる。安心して、死ぬことができる。
あるいはもう言葉があるのなら、僕が生きている間に、どうか教えてほしい。教わった言葉を、家族に伝えよう。そうすれば安心して、エッチな動画を見ることができる。
そんな安心、すでにとっても恥ずかしいのだが……。

 

(叔父の部屋にエッチな本があったことを記事にすることで、再び叔父の尊厳を傷つけていることにもなりはしないか。ということを書きながらに思いましたが、叔父と私の両方を知っている人が身内以外いないこと、その身内には一応話のネタにしていいという許可はもらっていることなどから書かせていただきました。それとちょっと、種明かしすると、叔父はエッチな本もアダルトビデオも部屋の見えるところにがっつり並べていたので、隠すつもりもなかったように思います。僕自身だったら、耐えられないな、という話でした。叔父よ。許してくだされ。)