アオアルキルキア

不定期連載

オンライン飲み会のすゝめ

緊急事態宣言が出てから、呑み屋さんに行けなくなってしまった。

国は全く協力的でない。やっと口にした補償もどういうわけか、収入が著しく減ったところに配るという。

順序が逆ではないか。

収入が減っては食べていけないから、働かざるをえない。店もやめられないし、電車にも乗らないといけない。先に、働かないですむ補償さえあれば、店を閉めることだってできるし、わざわざ危険を冒してまで電車に乗ったりはしない。

「二週間補償しますから、外に出ないでください」と、なぜいってくれないのか。

 

呑み屋さんにいけなくなると、普段呑み屋さんで喋っていたような人たちとも会えなくなった。毎週末飲み歩いていた友人たちと会うことは果たして不要不急か。不必要で、急がないから、楽しめるのではないか。金曜日が華になるのは、時間も必要も気にせずにいられるからではないか。不必要であることが必要なのではないか。このままでは気持ちもふさぎ込んで、生活に華もゆとりもなくなってしまう。どうにかして、発散したいものだ。

と、僕が考えていたら、同じようなことを多くの友人たちも思ったらしい。

色んな繋がりでできたいくつかのグループが、ほぼ同じタイミングで「オンラインで飲み会しようよ」といってきた。テレビ電話みたいなツールを使って、それぞれが自宅にいながら、お酒を片手にお話しようという。本当にたまたまだが、お誘いに使うツールがみんな違った。

Zoom使って飲み会しようよ」「LINEのグループ通話使ってちょっとしゃべってみようか」「Skype使えば普通にできるよ」

どの日も違うグループで、違うメンバーから招待された。

僕はモテるなあ、などと勘違いしつつ、予定が被らないようにスケジュールを合わせるのが大変だった。どの日も家にいるのに「その日は違うオンラインがあって」と断るのは、新鮮な用事だ。招待されたのに家にいるというのもおかしい。誰が、どこに招待しているのか。その場や空間は、どこにあるのか。インターネットやソーシャルネットワークは、昔から使われてきた言葉に、どんどん新しい意味を足していく。そこが仮想空間でも、現実でも、招待を受けることができる肉体は一つしかない。そこだけ未来になるのがちょっと遅いという気もする(かといって肉体が二つあっても、一つの脳みそで体験するのは一つの場でしかありえないのだろうけど)。

 

とある週末の金土日と三日連続、三つのツールを使ってオンライン飲み会を実施した。

その際最も音声などに不都合がなかったのはZoomだった。

LINEはすでにほとんどの人間がアカウントを持っていて、すぐにつながれるので面倒な手間がないというのが利点だったが、使うデバイスによって音が飛んだり、ハウリングしたりということがあった。

Skypeは慣れれば使いやすいが、やはり音が飛んだ。

だから、みんな、やるならZoomだよ、と思っていたが、実はその一週間後(どんだけ呑んでるんだ)また別の場でZoomを使ったら、やはり音が飛んで、画面もカクカクになる瞬間が何度かあった。

Zoom、お前もか。

結局のところ、実は使うツールに大した差はないのではないか、というのが僕の実感だ。

 

これはおそらく、オンライン飲み会そのものの価値が高いからだと思われる。

つまり何を使おうが気にならない。音が飛ぼうがどうでもいい。

だって全部、楽しいんだもん!(アイドルみたいにいいたくなった)

 

大事なことは、場であり、人だ。

日常生活は会社と家の往復だけではない。

むしろそれ以外の暇をどう過ごすかで、人の心の持ちようは変わってくる。

 

ブラック企業に働いていたころ、休みの日はひたすらに寝ていた。

今、休みの日に約束ができない、どこにも行けないという状況はとても似ている。

ただただ日々を消費していくと、心も体も疲弊する。その状況を明るくしてくれたのも、また人であり、接する場所だったことを思い出した。

どうでもいいことをしゃべるだけでも、生活は華やかになる。酔っぱらいながらトランプゲームをするだけで、一秒一秒がおかしくてしょうがない。ツールは何でもいい。町に出られない、酒場に行けない。ならば家を町に、部屋を酒場にしてしまおう。だらしない格好で、行儀悪くパソコンに向かって、他愛のない話題を肴に、友達と酒を飲んでしまおう。今日のおすすめを部屋で作ろう!

 

いやいやいや、ちょっと待て。

あまりにも勧誘が過ぎる。

なんだか、ちょっと怪しいスローガンのようだ。

ネットワークビジネスを勧める人みたいになってはいないか、不安になってきた。

ストレスを解消するならこれがいい、みたいな啓蒙は、いつだって胡散臭い。無理に勧めたところでそれぞれの環境もある。人間関係だってみんな違う。だから無理をする必要はない。それぞれが手を伸ばせる範囲がある。一人の時間の使い方が上手な人だっていっぱいいる。むしろこの状況を楽しんでいる人がいるのなら(いるのか)、余計なお世話だ。

 

ああ、だけど、それでも、やっぱり、僕は勧める。

国は補償をしてくれないが、貴方に友人がいて、ネットワークが使えるのなら、やってみてほしい。僕は保証しよう、その必要を。