アオアルキルキア

不定期連載

くす玉割りニスタ選手権

 

こんなスポーツを考えた。

 

その名もくす玉割りニスタ選手権。

全てが同じ条件で作られたくす玉の糸を引き、その割りかたによる技術力、表現力を競う競技だ。二十点満点中何点であるか。最も高得点をたたき出したくす玉割りニスタが優勝する。

 

くす玉を割る仕草における技術力とは何か。

糸を引き、割れたくす玉から、こぼれる紙吹雪や紙テープがいかに美しいかで点数が決まる。絶妙なバランスで四方八方に散る紙吹雪であることが重要だ。端の方に、ばさーっと束になって落ちてしまうと減点されるのである。

くす玉が割れた後に床の上に飛び散っている紙切れ、紙テープが、割りニスタを中心にまあるい円のような形で散らばっていると、とても評価される。逆に散らばったものに偏りがあったり、割りニスタの体や髪の毛にとてもいっぱいついてしまうようなら、それは美しくないとされる。全くつかないのも好まれない。ちょっとだけ髪の毛についている、ぐらいがリアルでいい。微笑ましくなる程度。それもまたバランスなのである。一瞬の紙吹雪、おめでとうの花火、儚いからこそ、さりげない塩梅が、美しいのだ。

またくす玉につきものである祝言、たとえば「祝・百周年」という言葉が書かれた垂れ幕がいかに綺麗に滑り落ちたか。そういったことが厳しく判断される。垂れ幕の端の方が折れていたり、祝言が全部読めなかったりしたら大減点である。

そんなものは、くす玉の出来によって違うではないか、と素人は見るかもしれないが、一流のくす玉割りニスタはその垂れ幕がちゃんと綺麗に見える力加減で糸を引っ張る。角度、引くスピード、絶妙な力配分。くす玉割りニスタは、血と汗と涙によって、その力学を習得するのだ。

 

くす玉を割る仕草における演技力とは何か。

それは割るまでの間、割る瞬間、割った後の三場面、その表情によって点数が決まる。

書かれている祝言にはいろんなパターンがある。「おめでとう百歳」「祝日本一号店」だとか「ビバ! 社長就任!」だとか「栄光の架橋開通記念!」だとかそういったパターンの中で、くす玉を割る人の表情とはいったいどういうものがふさわしいのか。

その顔がいかにめでたそうか、割る人らしければらしいほど、高得点なのである。

百年生きたおばあちゃんが、孫やひ孫にサプライズで用意されたくす玉を割るとしたら、いったいどんな顔だろうか。たとえば社長に就任する人がくす玉を割るとき、これまでの苦労を思い出した社長はどんな気持ちか。もしも新しい橋を開通できたとき、どんな困難を乗り越えてこの偉業を達成できたのか。

表情だけで、ストーリーに実感を込める。一流のくす玉割りニスタは、同時に一流の顔芸人でなければならないのである。

 

くす玉割りニスタたちのトレーニングは過酷だ。

選手権の公式ルールでは、その時に割るくす玉が、どんな設定の人に用意されたものなのか、当日になって初めて知らされるのである。また、別の選手の演技を見ることもできない。はじめの選手が不利にならないように、出場選手には一律、一時間前に、どんなくす玉であるのかを知らされる。不正は許されず、会場入りした時点で、外部との情報は遮断される。くす玉の垂れ幕に描かれた文字や背景、設定を知らされたくす玉割りニスタは、与えられた、たった一時間のあいだに自分の中でストーリーを高めて演技しなければならないのだ。

またくす玉の大きさも演技会場に入って初めて知る。会場に入ったら制限時間内にくす玉を割らないといけない。時間オーバーも当然減点になる。糸を引く力加減は、くす玉の大きさや糸の長さによって異なる。割れずにちぎれてしまうことだってありえる。紐の引く角度も重要だ。バランスよく中身をぶちまけないといけない。

 

くす玉割りニスタのトレーニングは過酷だ。彼らはあらゆる映画、ドラマ、演劇からその表現力、設定を自分に課し、どんなくす玉でも対応できるようにあらゆる大きさのくす玉をパッカーン、パッカーンと割りまくる。部屋の中はいつも紙吹雪。散らばる祝言、垂れ幕。相当おめでたい部屋だ。浮かれた部屋だ。だが当人たちは少しもめでたい気持ちにならない。ストイックにただリアリティのある美しい割りかたに没頭する。

 

今日もくす玉割りニスタは孤独に戦っている。どんなお祝いにも対応できる表情と力加減で、彼らは祝われ続けているのだ。

祝・くす玉割りニスタ・金メダル! の称号を求めて。