五里霧中をつめる
生意気にも、公開設定を制限した。
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今日は五箱目。
キッチン周りの物を色々としまった。キッチンタオルのストックだとか、エプロンやコースターなどの小物、コンビニでもらってしまった箸やスプーンなど。ばらばらしたものが多かった。僕はタバコを吸わないけれど吸う人が来るかもしれないので灰皿も持っていた。それから、耳かきや、爪切り、ばんそうこうや綿棒といった類。
新しいところに住んだら、今よりもキッチンの幅が少し広くなる。キッチンと流し場の間に幅ができ、料理がしやすくなる。自炊を頑張りたいものだ。
食事はときに人を救う。
先日、職場の近くの洋食屋さんに行った。そこはランチが千円で食べられる。カウンターに座ると厨房が見え、コックさんの一人はフライパンで何かを炒めて、もう一人は包丁でひたすらに切っていた。厨房にいる人たちの後ろには大きな黒板があって、料理のイラストと共に、言葉が書いてあった。
――涙とともにパンを食べた者でなければ人生の味はわからない――
きっと誰かの言葉だろうと思い、会計のときに店員さんに尋ねた。ゲーテの言葉だという。
僕も何度か、ご飯を食べながら泣いたことがある。
苦しかったとき、独りでいたときが多い。
味の違いもよくわからない、色々と鈍い人間なのだが、味が、沁みた。
生きていると思った。
自分が何だかわからないことがある。他人が何だかわからないことがある。これから先が、なんだかわからなくなることもある。あらゆることに不安になる。解決ができないことばかりかもしれない。自分の位置が見えなくなる。五里霧中だ。
五里にもわたる深い霧の中、あるとき、普段と変わらないただの食事が、身体の中に染み入り、自分の中の、何かを慰める。先にあるものはわからないのに、霧が晴れたように、正面を向けるようになる。胸がいっぱいになって、涙がでてしまう。そのまま、泣きながらご飯を食べる。味もなんだかわからなくなるのに、生きていけるような気持になってくる。
それを、そういう経験を人生の味というゲーテの感覚が、少しだけわかる。
でも全部はわからない。
わからないから不安になって、わかった気がして涙を流すと、人生の味が、少しわかる。
わかったり、わからなかったり、生きながらにして、迷うことばかり。
これからも、僕は何かを食べていく。
五里霧中の中、人生の味をかみしめたい。
そんなことを考えて、食べるための道具をつめた。
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