アオアルキルキア

不定期連載

優しい北海道

 

 

 

 

雪を「痛い」という、

遠くに、

そんな場所があって、

僕は、四季を想像した。

 


冬が寒いのでなく、痛いのなら

夏は暑いのではなくて、優しい。

 


定理を発見した。

僕は遠くの君のそばにある、

定理を発見した。

 

 

 

シャボン玉を「丸い」という、

わずかに、

こんな感覚があって、

僕は、死期を想像した。

 


たとえわずかな時間でも、

地球と似た形でいられるなら、

生まれてきてよかったと、

みんな、思えないかと。

 


法則を実感した。

僕は一瞬の連続の中に見える、

法則を発見した。

 

 

 

 


東京から北海道を

思う

僕はこれだけで

もうすでに

世界の科学者なんだ。

 

 

(2014/7/6 16:13 iPhoneのメモ)

(本日の東京の感染者数 四四五人)

映画

 

好きな映画のはなし

思いだすのはいつも

エンドロールの場面

二人で見た終わり

「何年かしたら、もう一度見ようね」って

そういう僕らはまるで主人公

「何年たっても二度目はないから」って

そういう僕らの映画だよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本日の東京の感染者数 三七八人)

めんどく

積ん読という
比較的最近の
ことばがあるけれど
めんどくさいものも
後回しにできてしまうので
どんどんとたまっていってしまう
だから僕はこれを
めんどくと読んでみることにした

家族のことはだいたいがめんどうだし
仕事は
誰かが行うめんどうを
お金をもらっておこなうのだ

恋愛なんてめんどうしかない
しようとするのも
しているあいだも
終わった後ですら
しばらくめんどうで


いきていくことも
しぬことも
ともすればめんどうでしかなく
部屋のあちこちに
そのめんどうがたまっていくから
まためんどうだ


それでまあふと気が向いて
めんどうの一つを手にとって
街に出た

本を読み終わるみたいに
始めから終わりまで
集中して
時間をかけて
むきあって
電車の中や寝る前や喫茶店とかで少しずつ
減らしていって
同時に
自分の中に増えていくものがあって
なんだそうか
あらゆる面倒は
本を読むことと
同じなのかと

それで僕はまだたくさんのめんどうが
積まれたままであるのを忘れて
おもしろそうなめんどうを見つけては
手に入れて
帰り道にニヤニヤしてしまうのだ

 

 

本日の東京の感染者数 三五〇人

十二使徒を思う

今日は在宅勤務だった。

 

仕事が終わって、今日はキッチン周りの物を箱に詰めた。その前に料理もした。

今住んでいるところでは最後の料理のつもり。明日も明後日もまだ、この部屋でご飯は食べるけれど、自分で作ったからこそ、これは晩餐なのだと思いたい。だから「最後の晩餐」。さすがにそれは、大げさか。

 

最後の晩餐はたくさんの絵にもなっている。

セリフやト書きを乱雑に書くならこんな感じ。

 

舞台には大きなテーブル。イエス、十二人の弟子たちが席についている。

――イエス、突然いう。

エス「この中に私を裏切る人がいる」

――弟子たち、驚いておのおのが口々に騒ぎだす。

ペトロ「え! そんな馬鹿な!」

ヤコブ「先生、それは私のことをいっているのですか?」

トマス「ひょっとして僕のことですか!?

マタイ「お、お、おれのことじゃ、ないですよね!?」

ざわざわと慌てる弟子たち。ユダ、イエスに近づいて、

ユダ「先生、まさか、私のことでは?」

エス、見かえして、

エス「それは、きみがいったことだね」

 

 

エスはユダのことをいったのだが、みんなが驚いて自分ではないかと不安がるのは、人間らしい瞬間だ。それからそのまま同じ食事のシーンが続いて、パンを食べるときにこんなこともいう。

パンの一切れをかかげて、

エス「このパンは私の肉だ」

ワイングラスをかかげて、

エス「これは私の血だ」

 

弟子一同、パンやワインを見つめて、一瞬固まる。

 

一瞬固まったのかどうか、僕は知らない。でも、いきなりそんなことをいわれたら、弟子たちは驚いて、食べるのをためらうのではないか、などと思う。

グロテスクなようで、そのあとにイエスのいう言葉に、信仰の深い意味が込められ、今のキリスト教にも脈々と伝わっている。儀式の始まりの出来事。洗礼を受ける際にぶどうジュースとパンを食べていたりする。詳しい意味が知りたい人は教会にいってみてもいいかもしれない。僕はクリスチャンでもないので、あまり多くのことはいえない。

 

自分で作った「最後の晩餐」を食べながら、「この中に私を裏切る人がいる」と気がついたイエスは、どんな気持ちだっただろうか、と考える。先生にそんなことをいわれた他の弟子たちのことを考える。それから、裏切ってしまったユダの、それがバレてしまった瞬間の気持ちを考える。

ある意味、それが最後でよかったのではないか。

皆でご飯を食べているとき、突然この中で悪い奴がいるなんて言われたら、それから後に一緒に食べるご飯は気まずい。美味しいごはんも気が気でなくなるかもしれない。

 

誰も送別会で喧嘩したくない。イエスは、立つ鳥後をにごしすぎ。最後だとわかっていたからいいたかったのかもしれない。みんなに、私が裏切られることを知って欲しかったのかと思うと、イエスは神の子というよりは、人の子のような気持にもなる。

 

僕が部屋でする「最後の晩餐」は、誰も裏切らない。誰からも裏切られない。疑われない。僕だけの晩餐。会話もない。告白も、宣言もない。黙々と食べる。この肉も、この飲み物も、僕の血や肉にしかならない。一人の最後は、さみしくもあるが、自由でもある。

 

ごはんをたべながら――

僕「僕はこの先も僕を裏切ることはないだろう」

ひとりの部屋で、声だけが響いて、

僕「それは僕がいったことだ」

 

そして僕はこの肉や血をかみしめた。

 

 

本日の東京の感染者数 二六六人

ちょこれいと・スクール (バレンタイン 5首)

「グリコする?」(わたしパーしか出さないよ)「買ったらあげる」彼の指が好き

鞄には一回溶けたチョコレート ふられる前から甘くて苦い

男の子から男の子チョコレート 型はないから形も自由

告白はむしろ普通の日にするよ これはあんたにあげたいだけで

「もらえない」 (ホワイトデーには卒業してる)「この先ずっと会いたいからだよ!」


本日の東京の感染者数 三七一人

十年一日

今日はお休み。

 

十箱目。

 

ひたすら箱にものをつめる。

今日は太宰治安部公房水木しげるの文庫本、それからCD、邦楽や洋楽、アンビエント、ピアニストのアルバム、それからトレーディングカードゲーム(マジックザギャザリング)の膨大なカード。トイレットペーパーのストック。アロマディフューザー

 

カードゲームは二年前くらいに、大人になってできた友達Aくんが、「昔遊んでいたカードゲームを大人の財力でそろえて遊んでみたい」といい、僕もやっていたものだったので「いいね」といったところ、彼がお金を出して大量に買った。そしてもう一人、一緒になって遊ぶ人Bくん(その人も僕の友人)をつれてきて、みんなで対戦をすることになった。それから、新シリーズが出るたび、A君やB君がたくさん買ってきて、僕の部屋で遊ぶ、という交流になった。僕はルールをすっかり忘れていたので、彼等に教えてもらって戦った。

 

地震があって、何も考えられなくなったので今日はここまで……。毎日ブログが書けるということは平和なことを示していた。後日改めて更新します)

 

本日の東京の感染者数 三六九人

九分九厘をつめる

今日は久しぶりに出社した。

 

帰ってから、九箱目をつめた。まだ本がある。

絵本や画集がいろんな形をしているせいで、必然的に一つの箱にはまとめられない。

八箱目と九箱目、本のジャンルはほとんど同じ。

八箱目は辞典が幅をとったが、九箱目は、絵本をたくさん詰めた。

 

実家にも絵本はたくさんあった。

でも喜んで読んでいたのはせいぜい小学校低学年ぐらいまで。だんだん読まなくなる。僕は二人兄弟の下のほう。僕が読まなくなると、家族に絵本を読む人がいなくなった。たくさん買いそろえた絵本は今も実家で眠っている。

 

独り暮らしをしてしばらく経ってから、僕はふいに絵本が読みたくなった。子どももいないのに。

なぜだろうか。

独りだった、からからかもしれない。

 

子供から大人になっていく過程で、人は絵本を読まなくなる。それまでは、お母さんやお父さんが子供に絵本を読んであげることが多い。子どもにとっての世界は、家族だけ。子どもと家族が一緒になって遊ぶとき、その遊びの一つに読書があった。一緒になってできる読書は、絵本ぐらいしかなかった。

小学生や中学生になると、家族以外の交友関係ができてくる。クラスメイトだとか同じサッカークラブのお友達だとか、ピアノ教室のなんとかちゃんとか、そういうつながりができてくる。それと同時に、一緒になって遊ぶことが増えていく。色んな「一緒になってする遊び」の中で、読書は生き残らない。本が好きな子はもちろんいる。図書室や図書館がお友達というのも素敵な交流だ。だけどそれは一人遊びに近いもの。一人でも遊べる人がすることだ。

「今日の放課後、「エルマーと竜」を何ページから何ページまで、一緒に読もうね」なんて約束をして待ち合わせるような子たちはまずいない。(読書会というのをやっている大人はいるが…)

家族と一緒になってしていた読書は、いつのまにか一人の世界に没頭する読書に変わる。

絵本を読まなくなるのはその内容が幼いからではなく、見える世界が増えたことによって子供たちの遊び方が変わっていくからだ。そうして、一緒になってする読書から、一人遊びを覚えた子供たちは児童文学やら小説やらにのめりこんでいき、やがて大人になる。

僕も、漫画やゲームといった遊び方の方が楽しくて、すっかり絵本から離れてしまった。

 

独り暮らしをし始めたあるとき、ふいに、僕は絵本も本だと思いだした。

独り暮らしは、なかなか、一緒になって何かをする、ということがない。そのため、一人遊びがどんどん上手になる。そうして習得していった遊びの中に、今度は絵本を「一人」で読んでみよう、という楽しみ方に気がつく。

大人が絵本を買って読んでしまうのはそういうとき。昔、絶対読んだはずなのにその内容は九分九厘忘れている。

「ああ、この絵はこんなにかわいいのか」

「この話は、こんなに詩的だったんだ」

「なんて素敵な気持ちになるんだろう」

昔は一緒になって開いていた世界を、独りになって、開いてみる。それは決してさみしいことではない。自分で自分に読み聞かせる。その独り遊びが、なんとも楽しい。

楽しかった「思い出」が、蘇るようだ。
 

本日の東京の感染者数 三〇七人