アオアルキルキア

不定期連載

八方美人をつめる

在宅勤務だった。

 

八箱目。

今日も本をつめる。段ボール箱が足りるか不安になってきた。残っているものは、まだたくさんある。歌集や辞典、それから広辞苑や文芸誌。あまったところに入りきらなかった文庫本や漫画本、ハードカバーやソフトカバーの小説にドラマや映画のシナリオ本、画集もまだある。何も箱の中身まで、ジャンルで分けて入れる必要もない。

我ながら、節操がないな、と思った。いろんなジャンルがありすぎだ。

僕は本が好きだが、その本に描かれる内容はたくさんある。小説、戯曲、ドラマシナリオ、映画シナリオ、俳句、短歌、詩、哲学の本、宗教の本、画集、絵本、それから子供に向けたもの、批評やエッセイ、ファッションの本、旅の本、街の人々を無作為に選んでインタビューしただけの本まである。辞典も無駄に種類が多い。広辞苑漢和辞典はいいとして、色の辞典、哲学の辞典、オノマトペ辞典にコロケーション辞典。みんな、バラバラ。

 

好きなものが多すぎる。僕は、気が多いのだ。

僕は昔から突き詰めて夢中になったものがあまりない。

そういうエネルギーを持った人にはどこか憧れがある。

 

たとえば、学者とか。

学者の本棚は、こんなに雑多じゃない。もちろん学者は、いろんなことを知ってはいるので、本棚にいろんな本がある。だけど自分が知りたいことや勉強しているものについての本はけた違い。一つのことが書かれた本が、違う著者、違う出版社で、十箱でも足りないほどの蔵書になる。

テレビ番組でたまに見るこどもの学者もそう。

歴史が好きな子、電車が好きな子、魚が好きな子、虫が好きな子。彼らの本棚は似たような本がずらりと並んでいる。バッタの魅力に取りつかれた子供は「何とかバッタ」だとか「バッタのほにゃらら」といった本ばかりがずらっと並ぶ。

そんなにバッタの本ってあったのか、と驚くくらい。

オタクといわれていた人たちもそう。バンドマンの追っかけもそう。さかなクンもそう。なんとかトークのなんとか芸人も同じ。そのメディアが違うだけで、突き詰めてそのことだけに異常に詳しい人はとてもかっこよく見える。

並んでいる本はそのことを知らない人には理解ができない。でも好きな人は最初から最後まで食い入るように読み込んで、すらすらと違いを説明できる。同じような内容に見えても、全然違う本なのだと力説してくれる。

そういう熱意に、憧れる。

 

僕の本棚は、色々あるけど迫力が足りない。

それは、広く浅いせい。

 

みんな好き、は裏を返せば、特別に好きなものがないということ。

八方美人ということばがあるが、僕はどこかそういうところがある。みんなにいい顔をしてしまう。あんまり、いいことではない。たくさんの好きな本を詰めていたら、まさかここにもそんな性質が見つかるとは思わなかった。ひょっとしたら、僕は本にも八方美人。

気が多いにも、ほどがある。いつか置いてある本たちみんなに愛想をつかされ、嫌われてしまうかもしれない。「私だけを選んでよ!」なんていわれても、僕は選べる自信がない。

 

恋に落ちるみたいに、雷が落ちるみたいに、本棚まるまる一つのことで埋まってしまうような何かに、出会ってみたい。

それは一つの愛の形を知れるから。

 

本日の東京の感染者数 四三四人

七歩之才をつめる

今日も在宅勤務だった。

 

七箱目。

今日も本をつめた。僕の棚をもう少し解説すると、三列ある棚の、一番左、上から三段目は日本文学の文庫本、四段目は海外文学の文庫本。一つ飛ばして、一番下には一番大きくて、重い本ばかりの画集のコーナー。そういうまとめ方で棚に入れていた。それをそのままつめていく。

画集は色んな判型があって、一定ではない。

だから、他の本と違って、小さな隙間が歪にできる。パズルのように歪な隙間に文庫本をつめる。

好きな画家がたくさんいる。僕は絵が好きだ。

描くのも、見るのも、楽しい。

 

文庫本もよく読む。通勤するときにカバンに入れて、お友達に会いに行く時にも鞄に入れる。移動のたび、ポケットに入れて一緒に移動して、一緒に帰ってくる物語。喫茶店で読んだりもする。どこで、いつ読んだのか、運べる本はそういう出来事も含めて読書になる。

反対に、画集は持ち運んで、読むということはあまりない。美術館で展示を見た後、買って帰るものが多い。お土産みたいな本になる。ときおり思いだして、自分の家で、その展示に浸る。旅のアルバムを見るみたいな感覚だ。

 

旅をする本が文庫本で、お土産になるのが画集。

それが同じ箱に入ってお引越し。冗談みたいで少し、にやにや、してしまう。

 

画集を読む、と書いたが、画集は読むものか?

見るものではないのか? という人もいるかもしれない。

 

画集はそのほとんどに、その画家の半生も描かれている。

その画家の半生を文字で追い、その途中途中に生みだされた作品を知る。

絵は一秒で見ることができる。

でも文字は、文庫本は、小説は、読まないといけないので時間がもっとかかる。詩集の文庫本でさえ、一分かけても読み切れない。

 

ぱらぱらと、画集の絵だけを見てしまうと数秒で終わる。

そのお土産はちょっと物足りなく思う。ぱらぱらと、画集の絵だけを見ると確かに楽しい。絵から絵へ、世界が広がる。

「すてきな色だなあ」「優しくて、いい風景だなあ」「面白い構図だな」「怖いのに、目を引くなあ」

短い時間で、一つ一つの絵を見ていくと、まるでそのスピードで絵ができたみたいに感じてしまう。見るだけなら、七歩歩いているあいだ、七枚見ることが可能だろう。

 

でも本当は、そんな速度で絵は描けない。

見るのは一瞬、だけどその絵が描かれた時間はいったいどのくらいだろう。

画集を見るだけだと、そのことを見逃しがち。

半生を知り、その絵の背景や奥行き、歴史を読むと、さらにその絵のことを注意深く見ることができる。

もちろん、絵は絵として見たいという人もいる。

「背景なんか知りたくない」「ただその絵だけで感じたい」

うんうん。それはもちろんわかるけれど、どちらかといえば、それは展示を見るときに思えばいい。本当の絵を見るときに、その持論はとっておこう。

画集はあくまでも、お土産。せっかくだから、読むべきだ。その背景や、その絵の物語を。

 

読むのに時間がかかると書いた、文庫本だがその創作は、いったいどれだけ時間がかかるのか。もちろん絵と同様に、時間がかかるものばかり。だけど反対に、こんな言葉もあったりする。

 

七歩之才(しちほのさい)ということば。

七歩、歩く間に優れた詩を作る詩の才能のことをいうそうだ。昔はすごい人がいたものだ。

 

詩は、絵よりも早く書けることがあるみたい。

ほほう、それなら詩集は読むものか?

見るものか?

 

見たり、読んだりする時間。詩を書いたり、絵を描いたりする時間。

これだから、芸術は面白い。

 

七箱つめるあいだに僕は、何を作ることができるだろう。

 

本日の東京の感染者数 四九一人

六菖十菊はつめない

今日は在宅勤務。

 

六箱目。

本棚の本をつめる。僕の引っ越しのメインイベントのような心持だ。

一番大きい棚に、色んな種類の本が入っている。

種類というのはたとえば小説、詩集、歌集、演劇といった内容の違いだけではなく、文庫サイズ、新書サイズ、四六判、A五判といった形のサイズでもある。

何箱使うのか、用意された箱では足りなくなるのではないか、と思ったが思った以上にたくさんの本が入った。

僕の棚は、ちゃんとジャンルごとに分けたつもり。

上の方から入れていくことにした。一番の段は詩集コーナー、日本人も海外の人もまとめて一画に。二段目は戯曲。これも同じ、海外でも日本でも演劇の本、でまとめた。下にもまだたくさん段があるけど、とりあえず右にいく。

二番目の列(行?)の、一番上はいろいろ、のコーナー。その他ではなくて、色んな事が書かれた本を集めた一画。どういう一画かといえば、芥川賞候補作をまとめた本であったり、文芸時評のような書評本、詩人のエッセイやコラムニストの映画についてのものだったり、キリストがいるとかいないとか、そういう類。

一つ下の段に行くと今度はシナリオ本や美術の雑誌、ドラマの台本が本になったものとアート系雑誌は全然違うものかもしれない。だからここも、いろいろのコーナー。

でもなんとなく作者や本の雰囲気、棚に並んだ時の見えかたで配置を決めている。その他の棚を作ってしまうと何でも入ってしまう。それが嫌だ。

また、下にはいかず、三番目の一番上に手を伸ばす。漫画本が並んでいる。海外の漫画は持っていないから、全部日本の漫画。漫画の神様は、日本にいたから日本の漫画しか持っていなくても変ではないはず。それから、下へ行く。今度も日本の本ばかり。この一画は、日本文学のハードカバーでまとめている。文庫はまた、違う棚。漫画と違って、文学は、海外のものも、いっぱい持っている。海外文学は一つ下の段にある。文学の神様は誰かといったら、色んな人が色んな名前をあげる気がする。僕はまだ、見つけていない。どの国にいたのか。あるいは今もどこかの国にいるのか。探している最中。日本に住んでいても、時には海を越えたくなる。

箱がいっぱいになってしまったので、今日はここまで。箱に詰めながら、本屋さんでも詰めていた形を思いだす。本の形もこだわってわけていたのは、しまうときを無意識に想像していたからだろうか。

 

引っ越したら、箱を開けて、また並べる。

僕が配置する、感覚を見つめたい。

ここにはこの本、この作者はこのあたり。本屋さんになったつもりでレイアウト。それが楽しい。実は買っただけで満足してしまい、全然読んでない本がたくさんある。読まないなら、いらないのかというとそうではない。

読まない本だからもっていく。

何かの折、本棚を振りかえり、手に取ってみたくなる。それが大事だと考える。買っておいて開いていなかった本、途中で読むのをやめてしまった本、絶対に捨てない。

本屋さんだけでない。本は、自分の部屋でも出会うことがあるはずだ。そこにあるかぎり、出会える。運命の再会だってある。

電子書籍は確かに、かさばらないでいいかもしれないけれど、棚に実態として並ぶ本には気配がある。本に「気」を「配」って「置」く。その感覚が、出会いを引き起こしてくれる。そんなふうに思う。

 

今日は六箱目なので、六菖十菊ということばを使おうと思っていた。六菖十菊とは、時期が過ぎて、役に立たないことのたとえをいう。

今はもう、読まない、出番のない本があれば、そのタイトルでもよかったが、僕の本に、時期が過ぎる、ということはない。

本の時期は、永遠に過ぎない。

本が眠ること、埃をかぶることはある。

でも棚にある限り、どんな本でも、時期は過ぎない。

 

 
(本日の東京の感染者数 四一二人)

五里霧中をつめる

 

生意気にも、公開設定を制限した。

質問に答えていただければ読めるようになっている。質問の答えはこのブログのタイトル。

 

今日は五箱目。

キッチン周りの物を色々としまった。キッチンタオルのストックだとか、エプロンやコースターなどの小物、コンビニでもらってしまった箸やスプーンなど。ばらばらしたものが多かった。僕はタバコを吸わないけれど吸う人が来るかもしれないので灰皿も持っていた。それから、耳かきや、爪切り、ばんそうこうや綿棒といった類。

 

新しいところに住んだら、今よりもキッチンの幅が少し広くなる。キッチンと流し場の間に幅ができ、料理がしやすくなる。自炊を頑張りたいものだ。

 

食事はときに人を救う。

先日、職場の近くの洋食屋さんに行った。そこはランチが千円で食べられる。カウンターに座ると厨房が見え、コックさんの一人はフライパンで何かを炒めて、もう一人は包丁でひたすらに切っていた。厨房にいる人たちの後ろには大きな黒板があって、料理のイラストと共に、言葉が書いてあった。

 

――涙とともにパンを食べた者でなければ人生の味はわからない――

 

きっと誰かの言葉だろうと思い、会計のときに店員さんに尋ねた。ゲーテの言葉だという。

 

僕も何度か、ご飯を食べながら泣いたことがある。

苦しかったとき、独りでいたときが多い。

味の違いもよくわからない、色々と鈍い人間なのだが、味が、沁みた。
生きていると思った。
自分が何だかわからないことがある。他人が何だかわからないことがある。これから先が、なんだかわからなくなることもある。あらゆることに不安になる。解決ができないことばかりかもしれない。自分の位置が見えなくなる。五里霧中だ。

五里にもわたる深い霧の中、あるとき、普段と変わらないただの食事が、身体の中に染み入り、自分の中の、何かを慰める。先にあるものはわからないのに、霧が晴れたように、正面を向けるようになる。胸がいっぱいになって、涙がでてしまう。そのまま、泣きながらご飯を食べる。味もなんだかわからなくなるのに、生きていけるような気持になってくる。

 

それを、そういう経験を人生の味というゲーテの感覚が、少しだけわかる。

でも全部はわからない。

 

わからないから不安になって、わかった気がして涙を流すと、人生の味が、少しわかる。

わかったり、わからなかったり、生きながらにして、迷うことばかり。

 

これからも、僕は何かを食べていく。

五里霧中の中、人生の味をかみしめたい。

そんなことを考えて、食べるための道具をつめた。

 

 

 

本日の東京の感染者数 二七六人

四方八方をつめる

今日もお休み。

 

四箱目。

靴をいくつか。革靴を黒く塗るクリーム(なんというのだったか)、革靴をつやつやさせるニス。ガラスを拭く棒(名前がちゃんとありそう)。僕が描いた油絵(タイトルのあるものは一つもない)、サンダル、それに、玄関に置いていた小物入れをそのままつめた。小物入れなので、たくさんの小物を入れている。名前の分からないものが多かった。

 

人は色んな靴を履いて、四方八方へと出向く。

仕事のときは僕は毎日革靴を履いている。

私服で働いていたときは、気分によって履く靴を変えていたので、それらの登場回数に違いはあまりなかった。

雨が降ったとき用はColumbiaの緑色の靴。ツルツルしてて、水に強い。そこも厚いがそんなに重くない。

普段使いは、CAMPERの黒い靴。一度はいたら他の靴がはけなくなるぐらい、しっくりきて、歩きやすい。

山登りのときは、トレッキングシューズ。ごつくて、重いけど、すごく丈夫で、頼りになる。ゴアテックス製で、紐が長く、結び方も他の靴とは違っている。爪に引っ掛けてクロスさせないといけないので、履くのも、脱ぐのもとても時間がかかる。だから、山を登るときにはく。雪が降って、積もったときに履くこともあった。

ランニング用の靴もある。アシックス。

これは、運動しなければ、と買った靴。買って、しばらくはちゃんと走ったり、歩いたりしていたけれど、三日坊主で終わってしまった。でも今度住んだところではちゃんと走るかもしれないから、捨てない。

 

しかし、色んな靴があるのに、僕は長靴を持っていないな、としまいながら考えた。

段ボールはまだ少し隙間がある。丁度一冊の本が入るくらい。靴が入っている箱に、靴にまつわる作品を入れたら、楽しいかもしれない。

本棚を探すことにした。

 

長靴といえば「長靴をはいた猫」が有名。僕の部屋の本棚に、その本はない。題名は知っているのに、その本が家にはない。有名とは名があると書く。持ってもいないのに知っている。僕の頭の中には有る。有名というのはそれぐらいのレベルをいうのかもしれない。

小説や漫画本のタイトルに、都合よく、長靴は見つけられなかった。残念。

画集もたくさん持っているので中には長靴の絵もあるかもしれないが、開いてしまうと時間が止まってしまうので、あえて我慢した。

詩集も何冊か持っている。

その中にたまたまあれば、気持ちがいい。そう思って探してみると、なんと、見つけた。

 

石原吉郎詩集(現代詩文庫二十六 思潮社刊)以下に一部、引用する。

 

「ごむの長ぐつ」

 

――ごむの長ぐつをはいたやつを/一隊列ほどもかきあつめて/一列にならべて/こういうのだ/ごむの長ぐつなぞ/こわくないぞ/ごむの長ぐつなぞ/平気だぞ――(中略)

 

一隊列という言葉が嫌でも戦争の話、軍隊の話、ということを感じる。わざわざ「怖くない」ということばが、怖いものについて書いているのだとわかる。整列させられ、強いられる状況が浮かぶ。この後の部分も、生々しい‶強制〟の場面。現代詩文庫の帯に「強制収容所の体験をへて極限状態を詩の言葉に昇華した」と説明されるように、石原吉郎(一九一五ー一九七七)さんの詩は、苦しい場面がたくさん描写されている。詩の終盤は、死と隣り合わせということが伝わってくる。

 

――ごむの長靴をはいていても/夜明けが二度くると/おもうものか/ごむの長ぐつでも/約束は約束だぞ/ごむの長ぐつをはいたやつは/おしゃべりをやめて/まっすぐあるけ/ごむの長ぐつなぞ/へいきだとも――

 

注目すべきは、冒頭と終盤の「平気だぞ」と「へいきだとも」。

恐ろしい現実を描いた詩の中で、ことばが繰りかえされ、漢字のような思いだった「平気だぞ」が、夜明けが二度くるとおもうのか、という強い気持ちから、気持ちが動いていたことを示すようにひらがなへと動き、「へいきだとも」といいきかせている。

話者がかわり、平気といっている人間が最初と最後で変わったともとれる。

ごむの長ぐつが、象徴しているものを考える。

 

昔も、色んな人が、色んな靴をしまっていた。

四方八方に出向くための靴。それは目的もまた多様にある。

僕の部屋に、強制収容所で使うための靴はない。その代わりに、そのことを教えてくれる詩があった。

使わない、形ばかりの靴や、少ししか、はいていない靴と共に、自分がはかずにすんでいる靴のことも、考えた夜だった。
 

(本日の東京の感染者数 四二九人)

 

三釁三浴をつめる

今日はお休み。

 

新しく住む部屋の契約書が先に送られてきた。一日一箱といいつつ、お休みなのでたくさんつめた。でも今日書くことは三箱目にいれたものについて。

今住んでいる僕の部屋は、白い部屋だったので、新しく買ったものは、白で統一した。テレビ台もその一つ。でもテレビ台として買ったけれどテレビは上に置いていない。アロマディフューザーや、CDプレイヤーを置いて使っていた。段ボールより幅があったけど、分解すると棒と板になった。引っ越して、また組み立てる。

それから、カセットコンロ、キャンプ用品を入れた。

人が来たとき、カセットコンロは鍋パーティをするときに使うので、持っている。登山用品は、大げさなものではなく、山登りに行く際に使うもの。カッパとか、ゲイターとか、ヘッドライトとか、いい匂いのする虫よけスプレーとか。もうしばらく、山登りをしていない。虫よけスプレーは、かなり余っている。使用期限とかあるんだろうか。隙間に、お香を入れた。アロマディフューザーは加湿器でもあるので使っているからまだ入れない。

 

そのままでは入らないものが、分解すると入るようになるのは、数学だ。面でとらえると大きいものが線や点といった部品になり、四角い体積に収まる感じ、うまくいえないけれど、すごいな数学は。すごいな人間は。(そんな大げさなことではない)。

 

しまいながら、僕の部屋には香りが出るものが多いな、と改めて気がついた。

若いとき、同世代の男たちは香水をつけていた。僕は変なところで自意識が過剰で、香水をつけている自分を知られるのが嫌で買えなかった。

モテたいのに「モテたいと思っている」と思われるのが嫌、といった気持ちだとか、容姿にもコンプレックスがあるせいで「こんな容姿の自分が香水をつけている」なんて思われるのも嫌、だった。でも、体臭がするもの嫌なので、その結果お香を焚くということにいきついた。誰かが部屋に来る前や、自分がどこかに出かけるときだとかにお香を焚く。

それが香水の代わりだった。

最近はアロマディフューザーの使い方も覚えて、ちょくちょく使い始めた。ボディクリームをぬることもあるし、髪がぱさぱさになってヘアオイルなんかもつけるようになった。僕からは色んな匂いがするかもしれない。
キャンプ用品の虫よけスプレーも、長い髪の女の子が使うシャンプーみたいな匂いだ。山の中にまで香りを持っていってどうする。気にしすぎて、むしろかっこ悪い。
全然、男らしくない、かもしれない。

 

三釁三浴(さんきんさんよく)という四字熟語がある。

広辞苑にすら載っていなかった。

生活の中でまず書かないであろう釁という文字はお香のことをいうそうだ。

浴、とはお風呂のこと。何度も、湯水で体を清め、何度も、身体に香をぬる。そうして、大切な人に会う。それだけの準備をして、会おう、という心構え。相手のことを大切に思う心を、言いあらわす言葉だという。

 

身体につける匂いに気を使うことも含めて「周りによく思われたい」という自意識は、確かに恥ずかしくも思うが、こういう言葉を見ると、それが必ずしも自分のためだけのことではなく、会う人への思いやりからくるものだともいえるわけだ。
電車の中で、たまたま隣の席に座る女性の香水が、あまりにも強く匂い、その刺激に気持ち悪くなることもあるが、それだけ大切な人とこれから会うんだと思えば、少しは優しい気持ちになれるかもしれない。

 

「コロナが落ち着いたら、会おうね」

「状況が良くなったら、遊ぼうね」


今、大切な人にかける言葉はそういった未来への約束ばかり。
来るかもしれない未来に向けて、僕が準備できることの一つが見つかった。
友人たちと晴れて、会うことができたとき、リモートワークで人とも会わなくなり、不潔極まりない姿になったまま、会うことは避けよう。
何度でも身体を清め、お香やアロマの香りがするように準備をしておこう。

 

(本日の東京の感染者数 六三九人)

二束三文をつめる

今日も在宅勤務だった。

 

また一箱、部屋の物をしまった。

 

今日は机の引き出しにある文房具や、文章を印刷するためのプリンター用紙。アイロンだとか、毛玉取り器も一緒にしまう。引っ越しは二週間あとくらい。使わないでも大丈夫そう。アイロンは在宅になって人と会わなくなったら全然使わなくなった。

 

引き出しの中には、書きかけのノートばかりはいっていた。

僕は子どものころから文房具をたくさん買ってしまう。そのときからたぶん、一番買ったものはノート。書きかけのノートばかりがたくさんあった。

子どものころ漫画を描いていた。

一番力を入れたのは表紙。タイトルのロゴにもとてもこだわる。鳥山明さんのドラゴンボールの真似っこのような、かっこいい髪形の主人公。気分は勝手に、巻頭カラー。とにかく時間をかけて、かっこいい髪形を描く。漫画は、そのたびに同じキャラクターを描かないといけない。主人公の髪型が、コマのたびに、違っていたら、同じキャラクターだと思ってもらえない(本当の世界では、その方がリアルかもしれないが、写実的な漫画を描くほどの画力はない)。とても時間がかかるから、一コマ一コマ描いていくのがすぐ面倒になってしまう。だから、全然続かない。そしてまた、新しい話を思いついて別の新しいのにはじめから描きはじめる。三、四ページだけ使った―ノートばかり増えていく。

 

大人になっても、あんまり変わらない。

どんな仕事も、始めたばかりのときは、メモをとる。教わったことを急いで書くので字が汚い。それで、もう一冊、スタイリッシュなノートを買う。聞いたことを書き留める走り書き用のメモと、それを読み直せて、人にも見せられるように書いたノートを作ろう、と考える。最初はその作業もちゃんと続く。仕事が終わったら、今日きいて、メモにしたことをもう一冊のノートに丁寧に書こう、という気分。だけど、仕事を少しずつ任されるようになると、疲れてしまう。家に帰ってまで、仕事のことなんかしたくない。メモはとっているのだから土日にやろう、暇なときにまとめてやろう、と後回し。それから、仕事を覚えてくるとメモも見ないで、よくなってくる。

それで、清書していたノートも最初の数ページでおしまい。

数ページだけ、書かれたスタイリッシュなノートばかりたまる。

仕事のことだけではなく、たとえばお金の管理をしようとしてそういうノートを買ってしまう。お箸を考えるとき用の、プロットやシノプシスマインドマップを書くためのアイデア帳が欲しくなって、買ってしまう。まだ使えるのに、新しく買うときはもう忘れている。これは○○用のノートだから、と考えるとき、それはいつも僕の中では発明なので、新しいノートでないといけないのだ。

それで、はじめの二、三ページだけ書いてあるノートがたくさんたまる。

なんだ。僕は子どものころから中身が全然変わってないな、と実感。

 

机の引き出しの物だけでは、箱はいっぱいにならないので、他にも細かくて、使わないものをたくさんつめる。ファッション誌や、会員になっているブランドのコレクションブック、会社の社内報や情報誌などをしまう。二束三文なものばかり。

 

そんなもの、ホントに貴方に必要なのかな?

今、ここに書いてみたら、別に捨ててもいいような気がしてきた。

え、そんなもの、もっていくのと誰かがいっていそう。

これは発見、かもしれない。

僕の捨てないものを書いてみると、誰かの声が勝手に聞こえる。

「それ、ホントに君に必要なもの?」

「そんなものも持っていくの?」

それは誰も発していない、僕が想像した誰かの声。

文字にして、発信すると、客観的な意見が浮かび上がった。これを機会に色々捨ててもいいかもしれない。もちろん、誰かにとっては、二束三文にもならないような、思わず問いたくなるようなものだとしても、僕にはちゃんと、必要なのだと答えられるものもある。

大事なのは問うことだ。

独りで箱に詰めながら、独りで、質問し続けよう。


「書きかけのノートは、ホントに必要?」

「また新しい発明をしたときに、新しいノートでなくてすむように」 

箱に入れるものにはみんな、答えも一緒につめておこう、などと思った。

 

(本日の東京の感染者数 五七七人)