アオアルキルキア

不定期連載

九分九厘をつめる

今日は久しぶりに出社した。

 

帰ってから、九箱目をつめた。まだ本がある。

絵本や画集がいろんな形をしているせいで、必然的に一つの箱にはまとめられない。

八箱目と九箱目、本のジャンルはほとんど同じ。

八箱目は辞典が幅をとったが、九箱目は、絵本をたくさん詰めた。

 

実家にも絵本はたくさんあった。

でも喜んで読んでいたのはせいぜい小学校低学年ぐらいまで。だんだん読まなくなる。僕は二人兄弟の下のほう。僕が読まなくなると、家族に絵本を読む人がいなくなった。たくさん買いそろえた絵本は今も実家で眠っている。

 

独り暮らしをしてしばらく経ってから、僕はふいに絵本が読みたくなった。子どももいないのに。

なぜだろうか。

独りだった、からからかもしれない。

 

子供から大人になっていく過程で、人は絵本を読まなくなる。それまでは、お母さんやお父さんが子供に絵本を読んであげることが多い。子どもにとっての世界は、家族だけ。子どもと家族が一緒になって遊ぶとき、その遊びの一つに読書があった。一緒になってできる読書は、絵本ぐらいしかなかった。

小学生や中学生になると、家族以外の交友関係ができてくる。クラスメイトだとか同じサッカークラブのお友達だとか、ピアノ教室のなんとかちゃんとか、そういうつながりができてくる。それと同時に、一緒になって遊ぶことが増えていく。色んな「一緒になってする遊び」の中で、読書は生き残らない。本が好きな子はもちろんいる。図書室や図書館がお友達というのも素敵な交流だ。だけどそれは一人遊びに近いもの。一人でも遊べる人がすることだ。

「今日の放課後、「エルマーと竜」を何ページから何ページまで、一緒に読もうね」なんて約束をして待ち合わせるような子たちはまずいない。(読書会というのをやっている大人はいるが…)

家族と一緒になってしていた読書は、いつのまにか一人の世界に没頭する読書に変わる。

絵本を読まなくなるのはその内容が幼いからではなく、見える世界が増えたことによって子供たちの遊び方が変わっていくからだ。そうして、一緒になってする読書から、一人遊びを覚えた子供たちは児童文学やら小説やらにのめりこんでいき、やがて大人になる。

僕も、漫画やゲームといった遊び方の方が楽しくて、すっかり絵本から離れてしまった。

 

独り暮らしをし始めたあるとき、ふいに、僕は絵本も本だと思いだした。

独り暮らしは、なかなか、一緒になって何かをする、ということがない。そのため、一人遊びがどんどん上手になる。そうして習得していった遊びの中に、今度は絵本を「一人」で読んでみよう、という楽しみ方に気がつく。

大人が絵本を買って読んでしまうのはそういうとき。昔、絶対読んだはずなのにその内容は九分九厘忘れている。

「ああ、この絵はこんなにかわいいのか」

「この話は、こんなに詩的だったんだ」

「なんて素敵な気持ちになるんだろう」

昔は一緒になって開いていた世界を、独りになって、開いてみる。それは決してさみしいことではない。自分で自分に読み聞かせる。その独り遊びが、なんとも楽しい。

楽しかった「思い出」が、蘇るようだ。
 

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