アオアルキルキア

不定期連載

十二使徒を思う

今日は在宅勤務だった。

 

仕事が終わって、今日はキッチン周りの物を箱に詰めた。その前に料理もした。

今住んでいるところでは最後の料理のつもり。明日も明後日もまだ、この部屋でご飯は食べるけれど、自分で作ったからこそ、これは晩餐なのだと思いたい。だから「最後の晩餐」。さすがにそれは、大げさか。

 

最後の晩餐はたくさんの絵にもなっている。

セリフやト書きを乱雑に書くならこんな感じ。

 

舞台には大きなテーブル。イエス、十二人の弟子たちが席についている。

――イエス、突然いう。

エス「この中に私を裏切る人がいる」

――弟子たち、驚いておのおのが口々に騒ぎだす。

ペトロ「え! そんな馬鹿な!」

ヤコブ「先生、それは私のことをいっているのですか?」

トマス「ひょっとして僕のことですか!?

マタイ「お、お、おれのことじゃ、ないですよね!?」

ざわざわと慌てる弟子たち。ユダ、イエスに近づいて、

ユダ「先生、まさか、私のことでは?」

エス、見かえして、

エス「それは、きみがいったことだね」

 

 

エスはユダのことをいったのだが、みんなが驚いて自分ではないかと不安がるのは、人間らしい瞬間だ。それからそのまま同じ食事のシーンが続いて、パンを食べるときにこんなこともいう。

パンの一切れをかかげて、

エス「このパンは私の肉だ」

ワイングラスをかかげて、

エス「これは私の血だ」

 

弟子一同、パンやワインを見つめて、一瞬固まる。

 

一瞬固まったのかどうか、僕は知らない。でも、いきなりそんなことをいわれたら、弟子たちは驚いて、食べるのをためらうのではないか、などと思う。

グロテスクなようで、そのあとにイエスのいう言葉に、信仰の深い意味が込められ、今のキリスト教にも脈々と伝わっている。儀式の始まりの出来事。洗礼を受ける際にぶどうジュースとパンを食べていたりする。詳しい意味が知りたい人は教会にいってみてもいいかもしれない。僕はクリスチャンでもないので、あまり多くのことはいえない。

 

自分で作った「最後の晩餐」を食べながら、「この中に私を裏切る人がいる」と気がついたイエスは、どんな気持ちだっただろうか、と考える。先生にそんなことをいわれた他の弟子たちのことを考える。それから、裏切ってしまったユダの、それがバレてしまった瞬間の気持ちを考える。

ある意味、それが最後でよかったのではないか。

皆でご飯を食べているとき、突然この中で悪い奴がいるなんて言われたら、それから後に一緒に食べるご飯は気まずい。美味しいごはんも気が気でなくなるかもしれない。

 

誰も送別会で喧嘩したくない。イエスは、立つ鳥後をにごしすぎ。最後だとわかっていたからいいたかったのかもしれない。みんなに、私が裏切られることを知って欲しかったのかと思うと、イエスは神の子というよりは、人の子のような気持にもなる。

 

僕が部屋でする「最後の晩餐」は、誰も裏切らない。誰からも裏切られない。疑われない。僕だけの晩餐。会話もない。告白も、宣言もない。黙々と食べる。この肉も、この飲み物も、僕の血や肉にしかならない。一人の最後は、さみしくもあるが、自由でもある。

 

ごはんをたべながら――

僕「僕はこの先も僕を裏切ることはないだろう」

ひとりの部屋で、声だけが響いて、

僕「それは僕がいったことだ」

 

そして僕はこの肉や血をかみしめた。

 

 

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