頭の中を見せてくれ
感動したことのすべてを言葉にするのは、無理なんだろうか。
もう何年も前のことだ。とあるミュージシャンがインタビューでこんなことを答えていた。
「自分の頭にあるものを、そのまま外に出せたらあらゆる人間が感動できる音楽を作れる。でも、いつも外に出せているのは2割ぐらいだ」
頭の中で思い描くことと実際表現できることにはどうしても差が生まれてしまう、そのことの歯がゆさを、そのミュージシャンはそんなふうにいったのだ。僕はこれを読んだとき、その人がいっているニュアンスがはっきりとわかって、思わず一人うなずいてしまった。同時に、そこでは書かれていなかったことに僕は答えていた。
感想も同じだろう、と。
作る人だけではない、受け取った人だって、歯がゆい。
「感」じて、心に「想」ったことも、外に出せているのは2割ぐらいだ。言葉の限界がもどかしい。本当はもっと、こう。違うんだ、脳味噌ではもっと、こう。心ではもっと、こう。
僕はいろんな感想を書くときいつも、そのミュージシャンのことを思い出している。
ミュージシャンですらそうなのだから、きっと誰だって、このものどかしさと戦っているんだろう。
二か月ほど前に、高島屋日本橋店で開催していた池田学ーthe pen―凝縮の宇宙にいってきた。これからその場で感じたこと、想ったことを書く。どうにかして、脳味噌に起こった現象の8割ぐらいを書いてみたい。感動したことのすべてを書こうとしたが、何よりももどかしく思った。言葉が感動に、追いつけなった。そんな展示だった。
池田さんの展示があると知ったのはずいぶん前だったのに日々に忙殺され、結局行くのは最終日だった。会場には長蛇の列ができ、13時過ぎから並んだが入ったのは14時になっていた。大盛況である。
はじめから僕は夢中だった。いつも人気のある展示ではストレスを感じて、さっと流し見るような感じになってしまうのだが、並んだまま、その絵を眺めることに少しも苦痛がなかった。一枚一枚、じっと見つめることが嬉しかった。
池田さんの絵は緻密で精巧なペン画だ。人の倍もある大きなキャンバスに、1ミリ単位で絵を描いていく。気の遠くなる創作の作業に誰もが神経を疑いたくなる。超人か、狂気の沙汰か。そんな印象をみんなが一様にして受けるのは、みんな、絵を描いたことがあるからだ。
僕の周りには「子供のころの夢が漫画家で、ノートに漫画を描いていた」という人がたまたま多かった。けれど世の中には全く描いてこなかった人だっているだろう。絵だけがどうしても苦手で美術の授業をさぼっていた人もいる。僕が体育の授業をさぼったのと同じだろう。それでもペンを持って白い紙に何かを描くというのを、ほとんどの人はやったことがあるはずだ。
だから誰でも絵を描くことの〝労力〟は想像できる。
ノートでもキャンバスでも、一枚完成させるということに向き合った人がいればわかるだろう。意外と絵は、進まない。余白はいくら描いても埋まらない。だいたいの人がすぐに雑になって音を上げる。
その〝労力〟を知っているからこそ、池田学さんの絵画は、その存在すら信じられなくなる。自分とはまるで違う次元を可能にしている人に、誰もが驚嘆するのだ。芸術は人間じゃないものがやっているわけではない。むしろ人間にしかやれないことだ。だから、いい。人が人に対して、別の次元を〝感じ入る〟こと、同じ人間だからこそ、そういうことができる別の人間に刺激を受ける。
池田さんの絵は、誰もが想像できる体感を集積し、極めたものでありながら、誰からも離れた次元にある芸術なのだと思う。
僕たちは、だからこそ食い入るようにその絵を見つめてしまうのだ。
でも「想像でき」るからといって、絵の内容が安易だといいたいのではない。
どこか楽しさや遊びがあるのは、見ていて楽しいし、安らぐ。つい読んでしまう漫画みたいにあとをひく魅力が随所に散りばめられている。ファンタジー、童話性といってもいいかもしれない。次のページをめくるときに思うわくわくする感覚、胸が高鳴る期待感、自分の視界がキャンバスの細部を選んでいく、次はここを見よう、次はここを見よう、そういった希望に胸が躍る絵でもある。
震災や原発に結びつくような種類の絵もたくさんある。タイトルだってそのままだ。実際にはあり得ない空間や世界になっているが、僕たちに実際あったことが記録されているように見えてくる。そういう類の絵の並びは、共通して張りつめた緊張感がある。なんだか、宇宙から今、隕石が地球に向かってきている、と知らされるような、あり得ないことが起こりえることの警鐘のようにも聞こえくる。それは壮大な物語や、絵画にある空間から僕が「想像でき」たことなのだろう。
展示には本当にたくさんの人がいた。そのせいで騒がしくもあった。けれど僕にとっては何の問題でもなかった。行列をじっとこらえて、一つ一つ丁寧に、集中して絵を観察していく中で、次第にまわりの音が聞こえなくなったのだ。
代わりに、聞こえてきた音があった。
彼が絵を描いていくときに発生したであろう音だ。
細かいところまで呼吸をとめて、線の一本一本を数えるみたいに見つめていったら、なんだかその線が、今まさに加えられていくような、臨場感があった。絵画空間に引き込まれ、白いキャンバスがだんだんと世界を創生していく、その渦中にいるような、空間の当事者になったような、壮大な錯覚があった。
本当はそんな音立たなかったのかもしれない。でも僕には「想像でき」た。頭の中で音が流れ、少しずつ絵が増えていく場面が動画のように脳内で再生されていった。完成した絵を見て、完成していく様を想像できた絵なんて、僕には他にない。
周りの音が聞こえなくなったこと、リアルタイムのように絵が見えてきたことは僕が集中して見たことによる。このことは作る側と受け取る側が同じだと僕に思わせた。
不思議だ。
次元が違う人だと思う反面、同じ何かが伝播した。池田さんのもつ集中力が、絵から僕へとやってきたようだった。
ここにも、誰もが体感したことのある“何かに集中するということ”とその集積を見てとれた。みんなも何かに夢中になっていて、話しかけられた言葉が何も頭に入ってこないときがあるだろう。池田学さんの絵を見ている人に、大事な話はしない方がいい。きっと聞こえていないから。
はじめに、思うことをすべて書けたらいいのに、と書いた。
感じたことを全部言葉にしたい、8割ぐらいを目指そうとした。
でも、やっぱり、なんか違う。
もっとこう、もっと違った言語化がある、言葉としてしか外に出せない。
歯がゆい。もどかしい。
一枚一枚に思ったことの一秒一秒が、一文字一文字変えていくごとに取りこぼしている気がしてならない。
池田学さんの絵ではなおさらそうだった。
細かいところで感じたことが、俯瞰してみたときにはもうつかめなくなっている。なんて語り切れない絵なんだろう。なんてたくさんのことを思う世界なのだろう。
僕はだから、この人の絵が好きなんだ。
池田学さんは、どうなのだろう。
頭で思い描くことの何割が出せているのだろう。
僕が今、一番頭の中をのぞいてみたい芸術家なのだ。
空間はワンルームでも無限大 みくろとまくろまくらの中に