アオアルキルキア

不定期連載

本来はそういうもの

まだコロナではない日記。

 

毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃう、あのたいやきくんみたいに僕も毎日毎日リモートワークでパソコンに向かって、嫌になっちゃいそうだ。

いいかげん、代わり映えしない仕事の話を、違うことがあったように書くことも難しくなってきた。

 

でも人の日記って、そういうものだ。

変化がない、そのことを書く。

外に向けることではなく、自分だけが読むので、どう読まれるかは意識しない。自分が書くので、感じ方も、表現方法も、昨日のものと、今日のものはだいたい同じようになる。でも不思議なことに一か月、一年、もっとずっと続けている人がいたとしたら、昔書いた日記を読みかえしてみると、今の自分とは違ったように感じるはずだ。

こんなことを思っていたのか。

こいつは誰だ? 本当に僕か?

あるいは、懐かしいな、と日記を開いた瞬間にまざまざとその時の自分を思い出すことだってあるかもしれない。過去の自分をふりかえるとき、今の自分のままでは、その場所には戻れない。こんな頃もあったな。それはつまり、もうその人とは違う誰かだ。

それは年をとったからか?

もちろんそれもある。けれど、変化しているのだ。少しずつ。少しなので、僕たちは気がつかない。一週間ぐらいではとても無理だ。一か月でも難しい。一年ぐらいで気がつく人はいるかもしれない。五年たてば、住んでいる場所も違う可能性もある。それぐらいわかりやすい変化なら、日記を読むとおもしろいかもしれない。もうその場所にはいない。ここにいる自分は、ここに適応した自分なので、そっちに住んでいる人は他人のように思えるかもしれない。

 

さて、ブログはどうだろう。

誰かに向けて書くのだ。すると毎日同じでは誰も読んでくれないと思う。わざわざ、その日にあったこと、昨日なかったことを一生懸命探してみる。そんなものはなかなか見つからない。人生は誰もが波乱万丈、でも毎日は誰もが退屈、そういう言葉を昔の哲学者がいっているかもしれない。(そんな陳腐なことはいうのか?)

ブログなのだから、読む人がいるのだから、そう思って書くと、もう、それは僕ではないのではないかと思えてくる。

退屈は心地よい時もあるが、読者が求めるのはどちらかというと退屈でないもの。日々を淡々と書き連ねても、誰も読んでくれないだろうと思ってしまう。意識してしまう。でもそんなことを考えながら書いていると、疲れて、やめてしまう。

場合によっては、削除もできる。

僕はこのブログを削除したくない。

放っておくことはあるとしても、せめて、忘れたくないことを書きたい。

 

紙に残した日記こそ、燃やせるし、捨てられる。でも、意外と捨てている人はいないのではないか。自分に向けて書いたものはなんとなく、捨てることができない。でも人に向かって書いたものはなかったことにできる。

どうしてか。

消してしまえば、忘れることができるからだ。

とっておくのは忘れたくないからだ。

 

人に向かっていったことには責任が伴う。軽々しくいったことで反感をかうと、なかったことにしたくなる。削除すれば、何を書いたか思い出せなくなれば、責任を取らないで済むと勘違いしてしまう(でも、言われたほうはずっと根に持っているので、削除しても、意味がなかったりするのだが)。

だけど日記は、自分が自分にいったことは、自分が思い出さない限り、誰も聞いていない。だから人は日記が捨てられない。

ブログと日記には、そういう違いがある。

 

僕は明日もこれを書く。きっと変化はない。誰かに向かって書く。でも、削除してもいいようには書かない。忘れたくないことを書く。

だからこうしよう、と今日決める(いまさらか)。

誰かに向かって書く。でもその誰かの中に、僕も含める。数年後、僕ではなくなってる僕に向けて。僕を含めた誰かに向かって書く。

こんな頃もあったな、と思い出せるように。