アオアルキルキア

不定期連載

アオアルキルキア

 

今回更新したブログだが、これは少し前まで短歌の兼題を始めに、その後は私に起った出来事、見に行った美術展の感想、子供のころの記憶といった雑記を書いていた。コンセプトとしては、どんな内容であれ、文章の末尾に内容を統括するような自作の短歌を添えるといったもので、過去のアーカイブを読んでいただければ嬉しい。

さて、何度目の正直なのか、101回目のプロポーズ(提案)というか、とりあえず私も今のところ死んでいない(「僕は死にません!」につける「も」)。

ということで、101回目の提案だ。

緊急事態宣言が終わるまで、毎日日記を書きます。

あれ。

提案ではなく、不要で、不急の、宣言になってしまった。

 

人に読ませる日記なんて、その度に飽きて、あるいは恥ずかしくなってやめてしまうことが多く、続けられた試しがないのだが、何人かにたまたま別の現場で、ありがたくも文章を肯定してもらい「また読みたい」といっていただいた頃に、外出ができなくなってきた。何かしらのタイミングでブログを再開しようと考えていたが、外出なども減るとまず改めて外に発表するようなことが思い当たらない。それでずるずると先延ばしにしていたところ、緊急事態宣言が出た。

飲みに行ったり、遊んだりできない。暇が増えた。

あ、今じゃない? 今再開したらいいんじゃない? などと思いついた。

また、それとは別に私個人の性質というか、自分の失敗や恥を、私はいつもどこか他人事のように思って笑い話にすることがある。きっと生まれてから死ぬまでの全てが私は黒歴史であり、今のところは死んでいないけれど、明日死ぬことだってありえる。別にそれはコロナであろうがなかろうが、人がいつ死ぬかなんて誰もわからない。そう思うと、ほんのわずかな声であっても、私に起った出来事を文章にする、という動き自体を肯定してくれた人がいるならば、やってみてもいいんじゃないかと思った。悲喜劇などというと大げさだが、個人の出来事が個人の域を出ないまま死ぬことがもったいないように感じたのだ。まるですでにコロナを疾患していて、死ぬ間際のような口ぶりだが、別に熱はないし、味もわかるので、かかっていないと思う、たぶん。

自分を切り売りするようなものに価値はないという意見もあるが、私は臓器提供意思カードを常に財布の中に入れて携帯し、その全ての内臓をどうぞお使い下さいと示している人間なので、自分の身に起った出来事も誰かの血や肉になればいいのではないか、あるいはそんなのは傲慢であって、栄養素一つなく、砂一粒の大きさすらも吸収されず、ごみ箱からごみ箱へ移動しているだけの文字列かもしれない。だが塵も積もれば山となるというではないか。塵芥をできるだけかき集めて、誰かの部屋の埃一つになり、その方が箒を持ってチリトリにのせる。たったそれだけの行為でもその人の未来が変わることだってありえる。

誰かに向けて綴る言葉の全てが、バタフライエフェクトである可能性を秘めていて、文筆家や表現者にはそれだけの責任があり、その責任は重い。でも同時に奇跡的だ。自分の書くことの責任に自覚を持って、黒歴史を書いていく予定である。

リニューアルでつけなおしたタイトル「アオアルキルキア」というのは、SFの父と呼ばれるジュール・ヴェルヌ地底旅行」に出てきた言葉だった。なんとなく響きに魅かれた。なんとなくそれにした、という「意味がない」ことも重要で、そういうタイトルであれば、どんな出来事であっても自由に書けるはずだ。

満腹食堂などというタイトルであれば、食事のこと以外書きにくい。

アオアルキルキアは、きっと世の中の多くのことに無関係であり、縁がない。私個人が思ったことも感じたことも、きっと世の中のほとんどの方に本来ならば、無関係だ。

でもそれを書いて発信したとたん、何かに関係するかもしれない。不思議だ。部屋の中で蝶がいくら羽ばたいても、世界は何も変わらない。けれど窓を開けて蝶が外に飛び出したとき、その羽ばたきが竜巻を起こすといわれている。私はもちろん蝶のつもりもないし、竜巻を起こしたいわけでもない。窓を開けて空気を吸うぐらいのことがしたい。それだって十分、世界に影響する行為じゃないか。

このブログが、私にとって換気になればいい。空気を入れかえると自分が生きていると実感する。山の中で息を吸うと気持ちいいのと同じだ。

そういう営みにしていきたい、というか、する。