アオアルキルキア

不定期連載

閑古鳥が泣いている

閑古鳥が鳴くという慣用句がある。
閑古鳥とは、カッコウのことだ。
お店にお客が入らない、繁盛しない状況を、まるでカッコウが鳴いているようだと喩える。
それは彼らの鳴き声が、物寂しい、侘しいことから、派生していったのだといわれている。カッコウから言わせてもらえば、ずいぶんとまあ、失礼な話ではないか。彼らは寂しさを演出しようと思って鳴いてはいない。けれども多くの人がその喩えに納得していった。腑に落ちた。その感じわかる、と膝を打った。だからこそ、今も使われている。
寂しい感じ、気配のない感じを、声で喩えるのは興味深い。

今、世界は閑古鳥が鳴くどころではない。
そもそもお店が閉まっている。
繁盛していないから閉店したわけでもなく、暇だったから閉めたわけでもない。
お客さんだって、他にいい店を見つけたわけでもない。

行ってはいけないから、我慢しているだけだ。
仕事が終わって、町を歩くと寂しさが極まって見える。町が静かになって、暗くなってしまった。
僕の家の最寄り駅の南口には大きな商業施設があり、仕事終わりに用もないのに買い物をすることも多かった。スターバックスキャラメルマキアートを自分のご褒美に買いに行ったりしていた。
けれど今、その商業施設は真っ暗になった。巨大な建物が光をなくすと、寂しいというか、むしろ怖い。こんな世界をぼくは少しも想像していなかった。世界が終わる物語をいくら読んでも、目で見た現実には敵わない。
こんな静寂の中では、鳴き声なんて、聞こえやしない。

繁盛しないお店の状況や、人の気配がしないところを、閑古鳥が鳴くというのなら、あらゆるお店が無人になりつつある今、そこら中のお店の中で、カッコウが鳴いているといえる。
あっちもカッコウ、こっちもカッコウ
どこもかしこも、カッコウカッコウ

どんなに侘しく聞こえる声も、そこら中で聞こえるのなら、それはむしろ、やかましいはずではないか。

あらゆる町が寂しくて、鳴いている。
鳴いているのに声が聞こえない。
それはつまり、声も出せないのではないか。

声にはならない、悲痛で、切実な状況なのではないか。
鳴くではなく、泣くではないのか。

もはやもう、声は涙になっている。

 

国も政府ももう少し、耳をそばだててはくれないか。
僕らは寂しさを演出しようと思って、泣いてはいない。多くの人がこの苦しみに納得できず、腑に落ちず、戦っている。
一刻も早く、涙を止めてはくれないか。

 

町では今、閑古鳥が泣いている。