七歩之才をつめる
今日も在宅勤務だった。
七箱目。
今日も本をつめた。僕の棚をもう少し解説すると、三列ある棚の、一番左、上から三段目は日本文学の文庫本、四段目は海外文学の文庫本。一つ飛ばして、一番下には一番大きくて、重い本ばかりの画集のコーナー。そういうまとめ方で棚に入れていた。それをそのままつめていく。
画集は色んな判型があって、一定ではない。
だから、他の本と違って、小さな隙間が歪にできる。パズルのように歪な隙間に文庫本をつめる。
好きな画家がたくさんいる。僕は絵が好きだ。
描くのも、見るのも、楽しい。
文庫本もよく読む。通勤するときにカバンに入れて、お友達に会いに行く時にも鞄に入れる。移動のたび、ポケットに入れて一緒に移動して、一緒に帰ってくる物語。喫茶店で読んだりもする。どこで、いつ読んだのか、運べる本はそういう出来事も含めて読書になる。
反対に、画集は持ち運んで、読むということはあまりない。美術館で展示を見た後、買って帰るものが多い。お土産みたいな本になる。ときおり思いだして、自分の家で、その展示に浸る。旅のアルバムを見るみたいな感覚だ。
旅をする本が文庫本で、お土産になるのが画集。
それが同じ箱に入ってお引越し。冗談みたいで少し、にやにや、してしまう。
画集を読む、と書いたが、画集は読むものか?
見るものではないのか? という人もいるかもしれない。
画集はそのほとんどに、その画家の半生も描かれている。
その画家の半生を文字で追い、その途中途中に生みだされた作品を知る。
絵は一秒で見ることができる。
でも文字は、文庫本は、小説は、読まないといけないので時間がもっとかかる。詩集の文庫本でさえ、一分かけても読み切れない。
ぱらぱらと、画集の絵だけを見てしまうと数秒で終わる。
そのお土産はちょっと物足りなく思う。ぱらぱらと、画集の絵だけを見ると確かに楽しい。絵から絵へ、世界が広がる。
「すてきな色だなあ」「優しくて、いい風景だなあ」「面白い構図だな」「怖いのに、目を引くなあ」
短い時間で、一つ一つの絵を見ていくと、まるでそのスピードで絵ができたみたいに感じてしまう。見るだけなら、七歩歩いているあいだ、七枚見ることが可能だろう。
でも本当は、そんな速度で絵は描けない。
見るのは一瞬、だけどその絵が描かれた時間はいったいどのくらいだろう。
画集を見るだけだと、そのことを見逃しがち。
半生を知り、その絵の背景や奥行き、歴史を読むと、さらにその絵のことを注意深く見ることができる。
もちろん、絵は絵として見たいという人もいる。
「背景なんか知りたくない」「ただその絵だけで感じたい」
うんうん。それはもちろんわかるけれど、どちらかといえば、それは展示を見るときに思えばいい。本当の絵を見るときに、その持論はとっておこう。
画集はあくまでも、お土産。せっかくだから、読むべきだ。その背景や、その絵の物語を。
読むのに時間がかかると書いた、文庫本だがその創作は、いったいどれだけ時間がかかるのか。もちろん絵と同様に、時間がかかるものばかり。だけど反対に、こんな言葉もあったりする。
七歩之才(しちほのさい)ということば。
七歩、歩く間に優れた詩を作る詩の才能のことをいうそうだ。昔はすごい人がいたものだ。
詩は、絵よりも早く書けることがあるみたい。
ほほう、それなら詩集は読むものか?
見るものか?
見たり、読んだりする時間。詩を書いたり、絵を描いたりする時間。
これだから、芸術は面白い。
七箱つめるあいだに僕は、何を作ることができるだろう。
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