八方美人をつめる
在宅勤務だった。
八箱目。
今日も本をつめる。段ボール箱が足りるか不安になってきた。残っているものは、まだたくさんある。歌集や辞典、それから広辞苑や文芸誌。あまったところに入りきらなかった文庫本や漫画本、ハードカバーやソフトカバーの小説にドラマや映画のシナリオ本、画集もまだある。何も箱の中身まで、ジャンルで分けて入れる必要もない。
我ながら、節操がないな、と思った。いろんなジャンルがありすぎだ。
僕は本が好きだが、その本に描かれる内容はたくさんある。小説、戯曲、ドラマシナリオ、映画シナリオ、俳句、短歌、詩、哲学の本、宗教の本、画集、絵本、それから子供に向けたもの、批評やエッセイ、ファッションの本、旅の本、街の人々を無作為に選んでインタビューしただけの本まである。辞典も無駄に種類が多い。広辞苑、漢和辞典はいいとして、色の辞典、哲学の辞典、オノマトペ辞典にコロケーション辞典。みんな、バラバラ。
好きなものが多すぎる。僕は、気が多いのだ。
僕は昔から突き詰めて夢中になったものがあまりない。
そういうエネルギーを持った人にはどこか憧れがある。
たとえば、学者とか。
学者の本棚は、こんなに雑多じゃない。もちろん学者は、いろんなことを知ってはいるので、本棚にいろんな本がある。だけど自分が知りたいことや勉強しているものについての本はけた違い。一つのことが書かれた本が、違う著者、違う出版社で、十箱でも足りないほどの蔵書になる。
テレビ番組でたまに見るこどもの学者もそう。
歴史が好きな子、電車が好きな子、魚が好きな子、虫が好きな子。彼らの本棚は似たような本がずらりと並んでいる。バッタの魅力に取りつかれた子供は「何とかバッタ」だとか「バッタのほにゃらら」といった本ばかりがずらっと並ぶ。
そんなにバッタの本ってあったのか、と驚くくらい。
オタクといわれていた人たちもそう。バンドマンの追っかけもそう。さかなクンもそう。なんとかトークのなんとか芸人も同じ。そのメディアが違うだけで、突き詰めてそのことだけに異常に詳しい人はとてもかっこよく見える。
並んでいる本はそのことを知らない人には理解ができない。でも好きな人は最初から最後まで食い入るように読み込んで、すらすらと違いを説明できる。同じような内容に見えても、全然違う本なのだと力説してくれる。
そういう熱意に、憧れる。
僕の本棚は、色々あるけど迫力が足りない。
それは、広く浅いせい。
みんな好き、は裏を返せば、特別に好きなものがないということ。
八方美人ということばがあるが、僕はどこかそういうところがある。みんなにいい顔をしてしまう。あんまり、いいことではない。たくさんの好きな本を詰めていたら、まさかここにもそんな性質が見つかるとは思わなかった。ひょっとしたら、僕は本にも八方美人。
気が多いにも、ほどがある。いつか置いてある本たちみんなに愛想をつかされ、嫌われてしまうかもしれない。「私だけを選んでよ!」なんていわれても、僕は選べる自信がない。
恋に落ちるみたいに、雷が落ちるみたいに、本棚まるまる一つのことで埋まってしまうような何かに、出会ってみたい。
それは一つの愛の形を知れるから。
本日の東京の感染者数 四三四人