六菖十菊はつめない
今日は在宅勤務。
六箱目。
本棚の本をつめる。僕の引っ越しのメインイベントのような心持だ。
一番大きい棚に、色んな種類の本が入っている。
種類というのはたとえば小説、詩集、歌集、演劇といった内容の違いだけではなく、文庫サイズ、新書サイズ、四六判、A五判といった形のサイズでもある。
何箱使うのか、用意された箱では足りなくなるのではないか、と思ったが思った以上にたくさんの本が入った。
僕の棚は、ちゃんとジャンルごとに分けたつもり。
上の方から入れていくことにした。一番の段は詩集コーナー、日本人も海外の人もまとめて一画に。二段目は戯曲。これも同じ、海外でも日本でも演劇の本、でまとめた。下にもまだたくさん段があるけど、とりあえず右にいく。
二番目の列(行?)の、一番上はいろいろ、のコーナー。その他ではなくて、色んな事が書かれた本を集めた一画。どういう一画かといえば、芥川賞候補作をまとめた本であったり、文芸時評のような書評本、詩人のエッセイやコラムニストの映画についてのものだったり、キリストがいるとかいないとか、そういう類。
一つ下の段に行くと今度はシナリオ本や美術の雑誌、ドラマの台本が本になったものとアート系雑誌は全然違うものかもしれない。だからここも、いろいろのコーナー。
でもなんとなく作者や本の雰囲気、棚に並んだ時の見えかたで配置を決めている。その他の棚を作ってしまうと何でも入ってしまう。それが嫌だ。
また、下にはいかず、三番目の一番上に手を伸ばす。漫画本が並んでいる。海外の漫画は持っていないから、全部日本の漫画。漫画の神様は、日本にいたから日本の漫画しか持っていなくても変ではないはず。それから、下へ行く。今度も日本の本ばかり。この一画は、日本文学のハードカバーでまとめている。文庫はまた、違う棚。漫画と違って、文学は、海外のものも、いっぱい持っている。海外文学は一つ下の段にある。文学の神様は誰かといったら、色んな人が色んな名前をあげる気がする。僕はまだ、見つけていない。どの国にいたのか。あるいは今もどこかの国にいるのか。探している最中。日本に住んでいても、時には海を越えたくなる。
箱がいっぱいになってしまったので、今日はここまで。箱に詰めながら、本屋さんでも詰めていた形を思いだす。本の形もこだわってわけていたのは、しまうときを無意識に想像していたからだろうか。
引っ越したら、箱を開けて、また並べる。
僕が配置する、感覚を見つめたい。
ここにはこの本、この作者はこのあたり。本屋さんになったつもりでレイアウト。それが楽しい。実は買っただけで満足してしまい、全然読んでない本がたくさんある。読まないなら、いらないのかというとそうではない。
読まない本だからもっていく。
何かの折、本棚を振りかえり、手に取ってみたくなる。それが大事だと考える。買っておいて開いていなかった本、途中で読むのをやめてしまった本、絶対に捨てない。
本屋さんだけでない。本は、自分の部屋でも出会うことがあるはずだ。そこにあるかぎり、出会える。運命の再会だってある。
電子書籍は確かに、かさばらないでいいかもしれないけれど、棚に実態として並ぶ本には気配がある。本に「気」を「配」って「置」く。その感覚が、出会いを引き起こしてくれる。そんなふうに思う。
今日は六箱目なので、六菖十菊ということばを使おうと思っていた。六菖十菊とは、時期が過ぎて、役に立たないことのたとえをいう。
今はもう、読まない、出番のない本があれば、そのタイトルでもよかったが、僕の本に、時期が過ぎる、ということはない。
本の時期は、永遠に過ぎない。
本が眠ること、埃をかぶることはある。
でも棚にある限り、どんな本でも、時期は過ぎない。
(本日の東京の感染者数 四一二人)