アオアルキルキア

不定期連載

二束三文をつめる

今日も在宅勤務だった。

 

また一箱、部屋の物をしまった。

 

今日は机の引き出しにある文房具や、文章を印刷するためのプリンター用紙。アイロンだとか、毛玉取り器も一緒にしまう。引っ越しは二週間あとくらい。使わないでも大丈夫そう。アイロンは在宅になって人と会わなくなったら全然使わなくなった。

 

引き出しの中には、書きかけのノートばかりはいっていた。

僕は子どものころから文房具をたくさん買ってしまう。そのときからたぶん、一番買ったものはノート。書きかけのノートばかりがたくさんあった。

子どものころ漫画を描いていた。

一番力を入れたのは表紙。タイトルのロゴにもとてもこだわる。鳥山明さんのドラゴンボールの真似っこのような、かっこいい髪形の主人公。気分は勝手に、巻頭カラー。とにかく時間をかけて、かっこいい髪形を描く。漫画は、そのたびに同じキャラクターを描かないといけない。主人公の髪型が、コマのたびに、違っていたら、同じキャラクターだと思ってもらえない(本当の世界では、その方がリアルかもしれないが、写実的な漫画を描くほどの画力はない)。とても時間がかかるから、一コマ一コマ描いていくのがすぐ面倒になってしまう。だから、全然続かない。そしてまた、新しい話を思いついて別の新しいのにはじめから描きはじめる。三、四ページだけ使った―ノートばかり増えていく。

 

大人になっても、あんまり変わらない。

どんな仕事も、始めたばかりのときは、メモをとる。教わったことを急いで書くので字が汚い。それで、もう一冊、スタイリッシュなノートを買う。聞いたことを書き留める走り書き用のメモと、それを読み直せて、人にも見せられるように書いたノートを作ろう、と考える。最初はその作業もちゃんと続く。仕事が終わったら、今日きいて、メモにしたことをもう一冊のノートに丁寧に書こう、という気分。だけど、仕事を少しずつ任されるようになると、疲れてしまう。家に帰ってまで、仕事のことなんかしたくない。メモはとっているのだから土日にやろう、暇なときにまとめてやろう、と後回し。それから、仕事を覚えてくるとメモも見ないで、よくなってくる。

それで、清書していたノートも最初の数ページでおしまい。

数ページだけ、書かれたスタイリッシュなノートばかりたまる。

仕事のことだけではなく、たとえばお金の管理をしようとしてそういうノートを買ってしまう。お箸を考えるとき用の、プロットやシノプシスマインドマップを書くためのアイデア帳が欲しくなって、買ってしまう。まだ使えるのに、新しく買うときはもう忘れている。これは○○用のノートだから、と考えるとき、それはいつも僕の中では発明なので、新しいノートでないといけないのだ。

それで、はじめの二、三ページだけ書いてあるノートがたくさんたまる。

なんだ。僕は子どものころから中身が全然変わってないな、と実感。

 

机の引き出しの物だけでは、箱はいっぱいにならないので、他にも細かくて、使わないものをたくさんつめる。ファッション誌や、会員になっているブランドのコレクションブック、会社の社内報や情報誌などをしまう。二束三文なものばかり。

 

そんなもの、ホントに貴方に必要なのかな?

今、ここに書いてみたら、別に捨ててもいいような気がしてきた。

え、そんなもの、もっていくのと誰かがいっていそう。

これは発見、かもしれない。

僕の捨てないものを書いてみると、誰かの声が勝手に聞こえる。

「それ、ホントに君に必要なもの?」

「そんなものも持っていくの?」

それは誰も発していない、僕が想像した誰かの声。

文字にして、発信すると、客観的な意見が浮かび上がった。これを機会に色々捨ててもいいかもしれない。もちろん、誰かにとっては、二束三文にもならないような、思わず問いたくなるようなものだとしても、僕にはちゃんと、必要なのだと答えられるものもある。

大事なのは問うことだ。

独りで箱に詰めながら、独りで、質問し続けよう。


「書きかけのノートは、ホントに必要?」

「また新しい発明をしたときに、新しいノートでなくてすむように」 

箱に入れるものにはみんな、答えも一緒につめておこう、などと思った。

 

(本日の東京の感染者数 五七七人)