四方八方をつめる
今日もお休み。
四箱目。
靴をいくつか。革靴を黒く塗るクリーム(なんというのだったか)、革靴をつやつやさせるニス。ガラスを拭く棒(名前がちゃんとありそう)。僕が描いた油絵(タイトルのあるものは一つもない)、サンダル、それに、玄関に置いていた小物入れをそのままつめた。小物入れなので、たくさんの小物を入れている。名前の分からないものが多かった。
人は色んな靴を履いて、四方八方へと出向く。
仕事のときは僕は毎日革靴を履いている。
私服で働いていたときは、気分によって履く靴を変えていたので、それらの登場回数に違いはあまりなかった。
雨が降ったとき用はColumbiaの緑色の靴。ツルツルしてて、水に強い。そこも厚いがそんなに重くない。
普段使いは、CAMPERの黒い靴。一度はいたら他の靴がはけなくなるぐらい、しっくりきて、歩きやすい。
山登りのときは、トレッキングシューズ。ごつくて、重いけど、すごく丈夫で、頼りになる。ゴアテックス製で、紐が長く、結び方も他の靴とは違っている。爪に引っ掛けてクロスさせないといけないので、履くのも、脱ぐのもとても時間がかかる。だから、山を登るときにはく。雪が降って、積もったときに履くこともあった。
ランニング用の靴もある。アシックス。
これは、運動しなければ、と買った靴。買って、しばらくはちゃんと走ったり、歩いたりしていたけれど、三日坊主で終わってしまった。でも今度住んだところではちゃんと走るかもしれないから、捨てない。
しかし、色んな靴があるのに、僕は長靴を持っていないな、としまいながら考えた。
段ボールはまだ少し隙間がある。丁度一冊の本が入るくらい。靴が入っている箱に、靴にまつわる作品を入れたら、楽しいかもしれない。
本棚を探すことにした。
長靴といえば「長靴をはいた猫」が有名。僕の部屋の本棚に、その本はない。題名は知っているのに、その本が家にはない。有名とは名があると書く。持ってもいないのに知っている。僕の頭の中には有る。有名というのはそれぐらいのレベルをいうのかもしれない。
小説や漫画本のタイトルに、都合よく、長靴は見つけられなかった。残念。
画集もたくさん持っているので中には長靴の絵もあるかもしれないが、開いてしまうと時間が止まってしまうので、あえて我慢した。
詩集も何冊か持っている。
その中にたまたまあれば、気持ちがいい。そう思って探してみると、なんと、見つけた。
石原吉郎詩集(現代詩文庫二十六 思潮社刊)以下に一部、引用する。
「ごむの長ぐつ」
――ごむの長ぐつをはいたやつを/一隊列ほどもかきあつめて/一列にならべて/こういうのだ/ごむの長ぐつなぞ/こわくないぞ/ごむの長ぐつなぞ/平気だぞ――(中略)
一隊列という言葉が嫌でも戦争の話、軍隊の話、ということを感じる。わざわざ「怖くない」ということばが、怖いものについて書いているのだとわかる。整列させられ、強いられる状況が浮かぶ。この後の部分も、生々しい‶強制〟の場面。現代詩文庫の帯に「強制収容所の体験をへて極限状態を詩の言葉に昇華した」と説明されるように、石原吉郎(一九一五ー一九七七)さんの詩は、苦しい場面がたくさん描写されている。詩の終盤は、死と隣り合わせということが伝わってくる。
――ごむの長靴をはいていても/夜明けが二度くると/おもうものか/ごむの長ぐつでも/約束は約束だぞ/ごむの長ぐつをはいたやつは/おしゃべりをやめて/まっすぐあるけ/ごむの長ぐつなぞ/へいきだとも――
注目すべきは、冒頭と終盤の「平気だぞ」と「へいきだとも」。
恐ろしい現実を描いた詩の中で、ことばが繰りかえされ、漢字のような思いだった「平気だぞ」が、夜明けが二度くるとおもうのか、という強い気持ちから、気持ちが動いていたことを示すようにひらがなへと動き、「へいきだとも」といいきかせている。
話者がかわり、平気といっている人間が最初と最後で変わったともとれる。
ごむの長ぐつが、象徴しているものを考える。
昔も、色んな人が、色んな靴をしまっていた。
四方八方に出向くための靴。それは目的もまた多様にある。
僕の部屋に、強制収容所で使うための靴はない。その代わりに、そのことを教えてくれる詩があった。
使わない、形ばかりの靴や、少ししか、はいていない靴と共に、自分がはかずにすんでいる靴のことも、考えた夜だった。
(本日の東京の感染者数 四二九人)