アオアルキルキア

不定期連載

コインランドリーは「やさしさ」

 

僕はまだコロナではない。まだコロナではない、などと書くとまるでコロナになりたいみたいだ。昨年(もう昨年のこととして書くことに今、驚く)いつ、コロナになるかわからないという状態で毎日日記を書いていた。コロナになったら、日記も書けなくなるかもしれない、書けるということは、まだなっていないということ。もしも更新されないことがあるとしたら、コロナになったときだろうと、そういう‟まだ“だった。

夏、一回目の緊急事態宣言が終わっても、感染者がゼロになることはなく、秋は瞬く間に去り、気がつけば冬に入り、感染者は瞬く間に増大した。その間、書けなかったのではなく、書かなかっただけなのに、再開してもまだ、”まだ“ などとつけてしまうとニュアンスが変わってきそうなので、これから上げる記事にはもう、まだはつけないようにする。(まだ、だの、もう、だのうるさい。黙って書けばいい。)

 

僕は三階建てアパートの三階に住んでいる。マンションかもしれない。明確に区分けする定義はないそうだ。

鉄筋コンクリートだし、綺麗めだけど、エレベーターがない。三階建てだから必要ないようないのだ。三階建てで、木造ではないけど、マンションというには少し世帯も少ない。家賃も安い。だからアパートだと思っている。

そういうアパートの一階に、少し前、コインランドリーができた。洗濯する場所がすぐ真下にできたのは便利なような気がするが、それ以来、僕の部屋は細かく揺れることがある。

 

元々、地盤が緩いのか、すぐ近くの交差点を、大きなトラックが通っただけで、僕の部屋は少し揺れていた。最近地震も多い。自分の部屋が少し、カタカタと震えるように揺れるとき、地震なのか、大きくて重い車両が近くを通ったせいなのか、わからなくなっていた。そこにきて、大型の洗濯機が、僕の住む部屋の真下で、一度にたくさん稼働するようになった。

新しい「揺れ」が現れたのだ。真夜中ほんの少しだけ、小刻みに、ベッドが揺れる。目が覚めることもある。でもまたすぐ眠れる。部屋が揺れることに慣れてしまったようだ。

 

揺れには微妙な違いがある。

地震は誰もが想像するように大きくて、長い。お部屋全体がカタカタカタカタ、食器棚などが音を立てる。時にはガタガタガタガタ、物が落ちたりして危ないこともある。災害にもなる。とても怖いものだ。

大きなトラックが通るときは、どーんっと遠くから、大きな音が聞こえる。少し離れたところの道路に、大きな車が弾むようにして道を走ったんだなとわかる。わかった瞬間と同じくらいのタイミングで、波になった揺れが、ぼくの部屋の食器棚もカタカタ、と鳴らす。

知覚の速度と、発信源からの距離と、振動の速度が、ちょうど同じぐらいということらしい。この揺れ方は、ほんの一瞬。窓を開けていると車の走行音なども聞こえる。まるでその音で揺れてるみたいに。音というのは振動だから、間違いではないんだろうけど、僕の部屋が揺れているのは地面が揺れるからだろう。

コインランドリーの揺れは、もっと直接的だ。建物の壁に取り付けられた洗濯機が揺れる。その壁が僕の部屋の壁まで伝わってきて、揺れる。建物を直接揺らしているのはコインランドリーだけなのだと思うと、一番揺れも大きいのかと考えるが、地震よりもトラックよりもささやかな揺れだ。だけど、どれよりも長い。長く、小さく、カタカタよりももっと細かい。タタタタタ。ベッドで寝ているときにそこが揺れると揺りかごみたいに思えてくる。嫌いじゃない。

 

僕の実家はすぐ近くに私鉄の線路が走っていた。電車が通るたび、小さく揺れた。引っ越す前に母と家を見に行った時、ストレスに感じるんだろうかと不安に思ったが、すぐに慣れた。人は何でも慣れてしまう。この揺れも、僕は生活の一部になった。

 

サニーデーサービスというバンドの、最近の歌「コンビニのコーヒー」という歌詞(作詞:曽我部恵一さん)に――コインランドリーはいつまでも開いている/それはもう「やさしさ」と言ってもいい――という一節がある。僕の真下のコインランドリーも二十四時間営業だ。そうか、これは「やさしさ」か。それなら僕は我慢ができる。ささやかな、小さい揺れを、揺りかごのように思って眠ることにする。

 

それはそうと、コインランドリーができたおかげでときおり、僕の部屋の水道がとまるようになった。これだけは、生活に支障をきたすため、慣れない。困る。引っ越しを検討している。

さて、揺れない部屋に引っ越したとき、いつかこの揺れを愛おしく思うことがあるんだろうか。生活にある小さな変化を、僕はかみしめていきたい。

 

(今日の東京の感染者は二二六八人。感染者数はずっと恐ろしい数のままだけれど、僕のまわりでコロナにかかった人はそんなにいない。百人前後のころから二千人を超えても、僕の実感に変化はない。感染者が増えているのではなく、コロナにかかったかどうかを調べる人、わかった人が増えているだけで、つまり感染者の発見が増えているだけのように思う。はじめから、ずっといたのだ。)