アオアルキルキア

不定期連載

イメージが大切

今日は在宅勤務だった。

 

会社、というか同じ部内の先輩たちからよく電話がかかってきて、どきどきした。別に恋をしているというわけではなく、テレビ電話に怯えた。髪はぼさぼさだし、簡単にいえばだらしない格好で働いている。少し前に部屋着を買ってしまったので、僕はすっかり、部屋着で働くコツを覚えた。

今週、出社したときに、会社の在宅勤務に合わせて、ラインワークスという、企業向けのLINEが導入された。もともと違う部署では既に使われていたものだったが、事業部でも使うことになった。スマホとパソコンにインストールされ、水曜日、先輩の一人がテレビ電話をかけてきたのだ。いきなりそんな電話がかかってくると思わなかったが、でなければ「後ろがうつせないようなところにいたのか」などといわれかねない。仕方なくでたが、先輩もわりかし、おじさんなので数秒で切れる。うまく使えないのだ。少し試したかっただけのようだ。

僕の「頭の上の方が見えた」らしい。

はじめて、職場の人に僕の部屋を見せることとなった。

このこともまた、これまでにはなかった体験だ。

会社の人で僕の家に呼ぶほど仲の良い人はいない。僕の部署では同世代が多くない。僕は部署の中ではすごく若いほうなのだ。さらに僕と二人一組で同じ業務をしている女の子は僕より十歳も若い。職場の人たちとは仕事がある日しか会わないので、部屋に呼ぶことは今後もずっとないだろう。僕が在宅勤務中、出社している先輩たちとのやり取りは常にメールか電話だ。もう一人の女の子も、在宅勤務中なので、自分のお家にいる。

出社しているときと違うことは、働いている姿が見えないことだ。

僕はその子がどんな部屋で、どんな様子で働いているのかイメージができない。僕がそうであるように、僕の上司も先輩も、その女の子も、僕がどんな部屋で、どんな様子で働いているのかをイメージすることは難しい。

イメージができないことは、どうしても気になる。

本当に働いているんだろうか。

寝てるんじゃないだろうか。

 

テレビ電話はその想像を、膨らませる、とっかかり、助け、にはなるかもしれない。

部屋にいる様子が少しだけ見えるだけで十分。

想像上の在宅勤務は、その想像の中にお部屋すら浮かびにくい。在宅勤務をするにあたって、わざわざ、どんな家のどんな部屋に住んでいるのかというのを、説明しないからだ。机や椅子の有無ぐらいはいうかもしれない。でもそれだって、イメージの中では、何もない状態にただ、その人が座っている像を浮かべるくらいなもの。

映像で、その人間の背景がうつってはじめて、何にもない空間から、部屋になる。

「あ、こいつ、ちゃんと部屋にいたんだな」と目に見える。(冗談ではなく、本当にそう言うものだと思う。)

なるほどなるほど。そういう格好で働いているのか。そういう部屋にいるのか。

そのときに、働いていそうなイメージを補完できればいい。けれど反対のイメージもできてしまう。僕がだらしない格好で、寝ぼけ眼だとしたら、働いてないと思われてしまうかもしれない。

 

バンド、ザ・ブルーハーツの楽曲に「イメージ」という歌がある。(作詞:真島昌利さん)以下に一部を引用する。

 

―― くだらねぇ仕事でも仕事は仕事/働く場所があるだけ ラッキーだろう――

 

ブルーハーツはパンクロックのバンドなので、風刺や痛烈な皮肉、メッセージ性の強い歌が多い。この歌も、仕事に不平を持った庶民から、自分で稼いだことのない若者が愛と平和を叫ぶことの説得力のなさ、さらには世界の在り方まで疑問に思わせる。カッコ悪い人たちを浮かび上がらせ、聞く人たちがこれから先の世界を想像する手助けをする。コロナ禍の中ではまた、違って聞こえるかもしれない。聴いたことのない人はぜひ、聞いてみてほしい。

 

――(中略)カッコ良く生きていくのはどんな気がする/カッコ良く人の頭をふみつけながら(中略)イメージ イメージ イメージが大切だ/中身がなくても イメージがあればいいよ――

 

 僕はそんなに仕事ができるタイプではない。でも怒られたくないし、ましてや、クビになったら困る。今のこの状況で、働く場所があるだけ、ラッキーなのだから、イメージを大切にしようと思う。せっかく部屋着を買ったのだけれど、本格的にテレビ電話の運用が始まったら、ちゃんとした格好にしないといけない。別に四六時中サボっているわけではないけれど、ちゃんと働いていることをイメージさせることも、大切だ。

 

(本日の東京の感染者数 二〇〇一人。NHKニュースウェブより。毎日書いているからわかるが、全然減らない。減らすことをイメージしてみよう。きっとそういうことも、大切だ)