アオアルキルキア

不定期連載

奈良のナラトロジー

まだコロナではない日記。

 

今日のお仕事は有給休暇でお休みをいただいた。祝日だけど有給だった。僕の仕事は完全週休二日制で、祝日は関係がない。とにかく土日が休みというだけ。だから本来なら、祝日でも仕事。きたるゴールデンウィークもずっと仕事。でもほとんどが出勤はしないで在宅勤務。
お休みだけどお家にいるし、お仕事だけどお家にいるしで、曜日の感覚がなくなることは間違いない。

朝起きて、いくつかのラインに答える。今年は誰もがどこにもいかないで、ゴールデンウィークも、いかにお家で遊ぶかという話が友人グループですでに持ち上がっている。オンラインで朗読会や読書会を約束した。
そのグループではみんな、僕のことを「ナラくん」「ならちゃん」「奈良さん」といった呼び方をする。大人になってできた友達が多くて、出会ったタイミングで僕は「奈良です」と名乗ったのだから、当然。だけど本当は本名じゃない。そういうと驚かれる。偽名を使って詐欺をしようというわけではなく、ペンネームのつもり。

本名だと、同姓同名がいっぱいいるので、自分なりに筆名を考えた。名前は本名と同じでいいか。よくある名前だけど、漢字が少し珍しい。「少し」くらいが「本を書くときに使う名前」との距離感として合っている気がして、そのまま採用。それで次は苗字を考えた。音、語感、バランスを考えて、二文字がいいと思った。二文字の苗字で、印象に残っている人を思い浮かべた。それが奈良先生。

 

四歳くらいから、中学生ぐらいまで、僕は絵画教室に通っていた。その教室の先生の苗字が奈良だった。芸大を出て、油彩画で個展もやっていた人なので、調べれば名前と作品が出てくる。

僕が小学校三年生か、四年生くらいのときに亡くなった。

僕は人が死ぬということがどういうことか、今でもあんまり理解はできていない。
それでもそのとき、とてもショックだったのを覚えている。普通に元気にしゃべっていた先生が突然この世からいなくなる。なんて世界なんだろうか。なんて残酷なんだろうか。僕もいつか死ぬんだろうか。死ぬってどういうことだろう。永遠に意識がない状態って。真っ黒いイメージ、闇の中、何も見えない世界、そうじゃないか、それどころじゃない、無だ、なんにもないんだ。なんにもないところに、いきなり奈良先生が行ってしまった。もう会えない、もうどこにも存在していない。悲しい、それよりももっと、怖い。とても、怖い。

葬儀に行った日の夜に、僕の頭の中ではそういうようなことがずっとぐるぐるとして、泣いても泣いても、眠れなかった。だから、僕にとっては一生忘れない先生の名前。先生といったら、まず思い浮かべる名前。先生は優しかった。もはや、印象しかない。それからずっと、奈良という名字を、拝借している気持ち。

 

ときおり、友人たちが僕をふざけて「奈良先生」と呼んでくれる。僕が思う奈良先生と友人たちが、僕に向かっていう「奈良先生」が重なって、無じゃないな、と思った。死は無ではなくて、姓。姓は、生。名前は、生きていることの象徴かな。

ゴッホは亡くなった後、永遠の名前になった。

僕は、奈良と名乗ることで、奈良先生を永遠にしたかったのかな。

そんなのはまあ、きっと、後付け。

 

本名じゃないというと、由来を訊かれる。

でもこんな説明は、長くて、毎回できるものでもない。それに、どうせ後付けなら、今からでも遅くない。ナラトロジー物語論)からとったというようにしよう、と思いつく。物語を書くならちょうどいい。
僕が書くものはそのまま僕の論理といっても過言じゃない。
それでいつか、僕は奈良として、奈良先生の小説を書く。
それは奈良のナラトロジー
奈良先生、よくないですか? シャレがきいているでしょう?