アオアルキルキア

不定期連載

控えめに祈る

まだコロナではない日記。

 

今日もまたリモートワーク。世間はゴールデンウィークだが、僕は仕事で家にいた。でも仕事がお休みの人たちもきっと家にいた。朝、目が覚めて、テレビをつけると、緊急事態宣言の延長が決まり、生活様式の変化がどうと、ニュース番組では議論していた。コロナが流行り始める前、まだ外国の話だったころに突然番組に呼ばれたらしい女性のお医者さんは、それから毎日のようにその番組に出ていて、この一か月で、少しずつおしゃれになって、はじめにでてきていたころよりは綺麗になっている。彼女の生活様式はすでに変わっている。変化する速度は、議論する速度より速そうだ。

 

だんだんとリモートワーク仕事には慣れてきたが、やはりなんだかイライラしてしまう場面が多い。集中力も続かない。音楽をかけながら仕事をすると、集中できる。文章を書くときも、絵を描くときも、料理を作るときも、通勤するときも、遊びに行くまでの電車の中でも、僕は好きな音楽を聴きながら生きている。僕はまさにノーミュージックノーライフマンなのだ。そんな「まさに」があるのかはわからないけれど。

 

だけど、今日はどんな曲をかけても、集中できなかった。なので、いつもより早めに休憩して、コンビニにいってもう一つの方法を試すことにした。

 

僕は甘いお菓子をときどき食べる。お菓子には和菓子と洋菓子があって、そのうちの洋菓子だけをとりあげたとき、僕の洋菓子ランキング、というものを発表する機会があったら、ぶっちぎりの一位というか殿堂入りというか、端的にいって大好きなものがある。

フィナンシェだ。

少しだけ硬くて、甘くて、なによりあの、形が好きだ。

金塊、金の延べ棒みたいな、でも丸みもあって、俵と瓦のあいだみたいな、あーいう形状の形を喩えるときにフィナンシェみたいな形といえば多分伝わる。

 

子供のころ、長野のおばあちゃんの家の、斜め前に玉木屋さんという小さなケーキ屋さんがあった。そこで食べたのがたぶん人生で初めてのフィナンシェだった。何かいいことをしたら、買ってもらえるご褒美だった。

当時はコンビニに置いているということなんてなくて、というかコンビニ自体がそこらじゅうにあるわけでもなかったし、だから僕は、フィナンシェを玉木屋さんが発明したお菓子だと思っていた。悪くない勘違いだ。だって、そのおかげで、玉木屋というお菓子屋さんの名前を今も覚えていられる。いつからか、あらゆるコンビニで売られているようになった。僕にとってはフィナンシェを買うことは小さな贅沢であって、至福のときだった。アルバイトしていたころも休憩時間によく買っていた。そのときも同じ話をした。フィナンシェって玉木屋だけのお菓子だと思ってたんだよね。玉木屋って?おばあちゃんちの前にあったお菓子屋さん。しらねえよそんなとこ。

 

とにかく僕が好きなお菓子なんだ、といいまくっていたら、何かのお礼だとか、仕事を辞める時だとかで、いろんな人が僕にフィナンシェをくれるようになった。嬉しいのでもっというようになった。その贅沢は今も変わっていない。今日はイライラしてしまったので、自分で買うことにした。お昼ごはんのあと、五分もかからない、午後のおやつ。少しだけ、イライラしていた気持ちが、やわらかくなっていった。それからはちゃんと集中して、仕事をすることができた。いろんな音楽を聴きながら仕事をした。僕は音楽がないと人生ではないし、フィナンシェがなければ生きてはいけない。


いつもどちらかを試しては心を落ち着かせている。今日はたまたまフィナンシェのほうがよかった。反対のこともある。フィナンシェを食べてもなかなかのらない。そういうときに音楽をかけたらすっきりしたりする。つまり、音楽がなければフィナンシェもないのかもしれない。

 

生活様式が変わるかもしれない。色々な議論がなされるかもしれない。だけどどんな変化になろうとも、音楽とフィナンシェだけは変わらないでほしい。

 

議論や変化の外側で、僕は控えめに祈った。