アオアルキルキア

不定期連載

みんなで勉強(-「哲学と宗教全史」出口治明著(ダイヤモンド社刊)の読書会ー)

まだコロナではない日記。

 

今日も仕事はお休み。

今日はずっと一冊の本を読んでいた。

出口治明さん著書「哲学と宗教全史」(ダイヤモンド社)の、第六章から第八章までの百五十ページくらいの範囲。どうしてそんな範囲だけを読んでいたかというと、これもまたオンライン読書会のためである。

その読書会メンバーは「聖書をまるっと最初から最後まで(信仰とは関係のないところで)、読み物として読んでみませんか」という誘いのもと、集まったメンバーだった。誘いのもと、といいつつ誘ったのは僕だが。

最初からその人たちみんなと友だちだったわけではない。僕はある時期、大きな社会人コミュニティに顔を出していた。山本多津也さんが作り上げた日本最大級の読書会サークルで、猫町倶楽部といった。ググるとすぐ出てくるので、興味がある方はのぞいてみるといいかもしれない。今は、自粛要請のため、開催できていない(オンラインなどを検討していて、近々やり方が提示させるようです)。その読書会の参加者たちが情報交換できる場があった。その場をお借りして、人を集めてみたら、多くの人が参加してくれた。それが聖書読書会メンバーである。聖書をまるっと一冊読む会、というのが終わって(僕は呼びかけたくせに途中で参加できなかったりして実は全部読んでいない。なんだそれ)、そのあとは宗教の関連本を読んでいくメンバーになった。

 

僕は元々、宗教や哲学に興味があった。

世界はどうやって生まれたのか、を考えてみると、その面白さが端的にわかる。

子供でも分かる宇宙の図鑑などをひらくと、大きな爆発の場面とともに、ビッグバンで宇宙が始まった、という一行ですまされているものが多い。その爆発が起こる前はどうなっていたのか。なんにもないところから、あるとき世界が始まる。そのなんにもないところとは、一体何か。人間の、想像できない部分だ。その最初の点を、はじめた何かが「いた」のかもしれない、としてみる。爆発が「あった」とするのと同じように、何かが「いた」と仮定して、その何かを神様と置いているのだと考えてみると、あながち宗教も完全には否定できない。というか宗教と哲学は昔から表裏一体だったことがわかる。始まりは、誰も証明できない。哲学者たちは世界が何でできているのか、どうやって始まったのかをひたすらに考えてきた。気が狂った人たちもいたようだ。気が狂うのもわかるというか、そりゃそうだろうな、と思う。人はなんだかわからないものに不安を感じる。想像できない部分が怖いのだ。理屈をつけてその不安を解消しようとする。「神様の考えることはわからない」としてみると少し楽観的になれる。それは宗教の一つの側面だ。想像できないことを延々と考えるので哲学者は気が狂う。それが哲学の一つの側面だ。世界がどうやって生まれたのかを考えることは、ちょっと危険を伴うが、誰もが想像する普遍的なミステリーだ。

 

ここまで書いてきたのは、冒頭に出てきた「哲学と宗教全史」をなぜ読んでいるのか、の説明のつもり。興味があったから、こういうことに興味がわいたから。それで集まったメンバーで、選んだ本だった。

タイトルの通り、様々な国で生まれた宗教と哲学が順を追って説明されていく。出口さんの文章は大変わかりやすく親しみ深い。語り口も軽妙で優しい。ニュートラルな立ち位置で書かれていることがよい。宗教にしろ哲学にしろ、色々な考えかたがある。そのどこからも等しい距離で、わかってきたことだけを教えてくれる。また、どんな国のどんな話であっても、いちいち、この部分をもっと深く知りたければこういう本がおすすめですよ、といってくれるのもいい。おせっかいな感じには思わない。

読んでいくと、僕たちの生活に自然と溶け込んでいる中国由来の言葉も、ニュースでよく耳にするイスラーム教の宗派も、いかに表面上のことだけで処理していたのかと思い知る。わかった気になっていたかと、痛感する。ちょっと恥ずかしくなるレベル。僕たちはたくさんの誤解をしている。そのことがよくわかる。勉強になるし、より知りたくなる。明日にでも、誰かに教えたくなる(それは僕だけかもしれないが)。良書だ。

 

オンラインの読書会は二時間くらいやった。どの国の哲学も宗教も、当然歴史も、知らなかった、知れてよかった、という意見が多かった。次は九章から最後までで、やる予定。なんとあとがきのところでは著者の出口さんのメールアドレスが載っている。

ちょっと、メールがしてみたい。

というか、もっというと友だちになりたい。

年も離れているし、大学の学長もなさっている立派な方に、そんなことを思うのもおこがましいけれど、そう思わせるのもまた、この本の魅力の一つ、かもしれない。