アオアルキルキア

不定期連載

シーズンを走る

 

今日も出社した。

朝、少し、もたついてしまい、久しぶりに走った。足が遅い上、もう立派なおじさんなので、ぜえぜえ、はあはあ。マスクをして、マフラーをして、走った。眼鏡が曇り、呼吸はしにくくて、冗談ではなく、死ぬかと思った。これで死んだら、死因はなんというのだろう。全力疾走で呼吸困難。みっともない姿で、何とかバスに間に合った。

 

僕は足が遅かった。徒競走ではいつもビリだった。足が全然動かない。子どものころ、女の子にモテる男の子は、足が速かった。容姿だとか、収入だとか、教養は、子どもの世界ではそんなに活躍しない。持っているものが、みんな似たり寄ったりだからだろう。

僕のクラスでも一番モテていたのはミヤタくん(仮名)。

徒競走で足が速い子は、持っているものが違って見える。だから、すごく輝いた。ミヤタ君は、右の子も、左の子も置いていき、駆け抜けた。彼は、まるで風だった。いいな、僕もあんなふうに走れたら、とっても気持ちがよいだろう。

体育の授業、みんなでいっせいに、よーい、ドンっ。

「わあ、はやい」「すごーい」「はえー」「ぶっちぎりじゃん」それは驚嘆であり、称賛だった。ぶっちぎり、なんていわれちゃって、鼻も高くなるだろう。ミヤタ君は足も長くて、背も高い。クラスメイトのあの子も見てる。ミヤタ君はみんなの憧れ。僕もそんなふうになりたくて、一生懸命走るけれど、まず彼とは足音が違った。たったったったったっ……足の速い人と走ると、あっという間に音が抜けていく。僕も見様見真似で、足を動かす。だけど僕の足は、べったん、べったん、べったん、べったん。もたもたしていて、いつまでも音が抜けていかない。いつまでも、僕の後ろにある感じ。心臓はバクバクするし、呼吸もふうふうと騒がしい。なのに、足音だけが、もたもたしていて、まとわりついて、かっこ悪い。身体は軽いはずなのに、全然進まない。僕がモテなかったのは、足が遅かったから、ということにしてもいいかもしれない。

 

大人になると、みんな、少しずつ走らなくなっていく。

おじいちゃんやおばあちゃんはかけっこではなくて、ジョギングか、ウォーキング。風のようには走れなくなる。下手したら、死んでしまうし、転んだら骨折しちゃうことだってある。走る必要は全然ない。でももし、走ることができたなら、みんな、いつまでも走りたいのではなかろうか。

もちろん、大人になろうが子供のように走り続ける人もたくさんいる。そういう人たちにはいろんなタイプがある。

健康を考えてジョギングするタイプ。

多摩川の川べり、サイクリングロードをお揃いのランニングウェアで走る夫婦もいれば、皇居の周りをぐるぐる回る人もいる。でっぷりと出てきた下腹部をひっこめたい。健康診断の結果が悪くて、体質改善を志す人。スポーツジムのランニングマシンで決まったキロ数を走らないと気持ちが悪くなる人もいる。それはみんな、自分のために走る人たち。誰かを追い抜く必要なんてない。それが気持ちいいことを知っているタイプ。こういう人たちは根気強い。

誰かを追い抜くために走っているタイプもいる。

オリンピックの陸上選手。世界で一番を目指す闘志がある人たち。一秒の壁を越えようと、人生の全てを、一瞬に賭けている。お正月には駅伝が盛り上がる。僕のように走らなくなった大人たちが、自分の出た大学の男たち、後輩たちを応援する。自分が走らないかわりに走ってくれている彼らに、タスキではないものを託しているのかもしれない。

 

僕はすぐに飽きちゃうし、やめてしまう。習慣にできないタイプ。見習わないといけないと思いつつ、形から入って、形だけで終わってしまう。〇点の人。だけど、こんなタイプは、ときおり、かけっこをしたいな、と思うことがある。

最寄り駅から僕の部屋まではうんと長い、一直線。夜更けの道、誰もいないし、人通りもない時間帯。まっすぐに、道の先を見据えて、よーい、ドン。隣には誰もいない。僕は僕だけで走る。すぐに疲れる。呼吸も苦しくなる。足音も、やっぱりもたもたしている。でも、少しだけ、風になったような気がする。ほんの一瞬、時間が止まって、世界が僕だけになる。ほんの一瞬、ミヤタ君に、少しだけ、追いついた気がする。彼は、今、何をしているだろうか。

 

バンド、フィッシュマンズに「SEASON」という楽曲がある。以下に歌詞を引用する。(作詞:佐藤伸治さん)

 

――(中略)夕暮れ時を二人で走ってゆく/風を呼んで 君を呼んで/東京の街のスミからスミまで/僕ら半分 夢の中/夢の中……/GET ROUND IN THE SEASON――

 

年をとればとるほど、時間の方が早く進む。季節はコロコロと変わる。僕たちがどれだけ一生懸命、走らないで生活したとしても、時間は瞬く間に走りすぎる。大人は、かけっこなんてしない。グラウンドで、かけぬけるようなこともしない。

だから、ときおり、走りたくなる。走って、走り抜けて、時間を一瞬、とめたくなる。それが無駄でも、一瞬でも、走り抜ける。それが気持ち良いと知っている。

 

(本日の東京の感染者数 六一八人。一日の感染の確認が七〇〇人を下回るのは先月二八日以来。 NHKニュースウェブより)