アオアルキルキア

不定期連載

ワンダフルフィッシュ 今夜また

今日も出社した。

 

僕の会社のエントランスには大きな水槽が置いてある。

小さな熱帯魚がいつもそこを泳いでいる。イソギンチャクもいて、水槽の中に置かれた岩や木の上を這うようにして動いていた。朝見たときと違う位置にいることで、こいつは動くやつなのか、と気がついたりする。

実は会社の人間であっても、というか、社内の人だからこそ、その水槽の中をじっくりと近くで見ることはできない。エントランスは、あくまでもお客さん用の玄関なのでそこを通っていいのは会社の受付時間が終わった後や祝日だけ。トイレにいくときにはエントランスは通らず、遠回りして一回フロアを出る。エントランスに入らずに遠巻きに見るだけ。魚の様子は夜しか見ることができないので、さみしい。

祝日に出勤するとお客さんは来ないので、じっくりと見ることができる。
ここぞとばかりに僕は眺める。様々な種類の魚が、すいすいと水槽の中を動き回る。小さな村のようだ。この岩は、村の集会場、ここは学校、ここはこの村の象徴である神様が宿る大木、などと妄想する。

ときどき、熱帯魚の業者さんが来て、水槽の水を変えたり、お掃除したり、お魚たちの健康をチェックしに来る。イソギンチャクがいなくなったり、泳ぎまわっていた魚たちの種類が変わったりしている。熱帯魚は鑑賞されるもの、だとはわかっているが、どうしても、その水槽だけが世界であることを不憫に思ってしまう。

魚たちは、もっと広いところがよかったと思っている可能性もあるが、快適で、気持ちがよくて危険もないので幸せかもしれない。反対に、外の世界で生きなければならない人間たちを憐れんでいるかもしれないし、その水槽だけを世界の全てだと認識していて、その世界の中には社会や宗教や道徳やヒエラルキーがあって、いつか世界を変えてやろうと思っているクマノミがファイティングしているかもしれないし、ときおり通り過ぎる人間たちは、動いて流れていく自然現象のようにしか思っていないかもしれない。僕が憐れむことに、何も意味はないのだ。

 

僕は月に一回、クライアントの会社に行く。そこのエントランスにも大きい水槽がある。そこの水槽にはたくさんの魚がいるわけではなく、とても大きな魚が一匹だけ、空を浮かぶ竜のような佇まいで泳いでいる。アロワナというやつに似ているが、本当にそうかどうかは自信がない。目も体も大きい。近づくとちゃんと僕に気がついて顔を向けてくる、ばく、ばく、と口を動かして水槽の壁に当たっている。何をしようとしているのだろうか。僕を食べようとしているのか。それとも、「やあ、また来たな。何にもないところだが、ゆっくりしていけよ」といっているのかもしれない。僕は魚の言葉を知らないので、残念だ。

たくさんの魚がいる水槽は、村のようだと思ったが、その水槽は彼(もしくは彼女)の部屋のように思う。その水槽にも大きな岩がある。この岩は、魚のベッド、この木は魚の机、アロワナから見た僕たちは、テレビ番組ぐらいに思っているのかもしれない。この魚が、もしも僕の彼女なら、月に一度の逢瀬になる。実はこのアロワナは魔法で魚に変えられてしまったお姫様で、「ねえ、貴方、いつになったら私をここから連れ去ってくれるのよ」などと話しかけてきていたのかもしれない。

 

少し、話を変える。

一昨日、目が離せない、じっと見てしまうもの、をいくつかあげたが、車窓もそうだ。

自分が進んでいるのに、世界が流されていくように見えてくる。ある時は助手席で、ある時は吊革につかまって、後ろへ、後ろへと流されていく街並みを見る。全然飽きない。多分僕は一日中車窓だけを見ていられる。車も、電車も、人間しか使わない。そこから見える景色は、人間しか知らない。地球も、自然も、そんなふうにして見られるとは想定していない。だからもしかしたら、どこかのタイミングで、秘密がわかるかもしれない。そんなふうに思って、その様子を、じっと見る。じっと見ながら、思うことがある。特に夜、僕は強く感じる。魚になったみたいだ、と感じる。

ここで、話が戻る。

電車の中から、暗くなった世界を見ると、自分が魚になって、全く知らない外の世界を見ているような錯覚に陥る。街灯がゆっくりと流れていくと深海で光るクラゲのように見える。暗闇の中に浮かぶ住宅街は海の底の岩だ。街は大きな水槽でもしかしたら、僕たちも何かに見られていて、外の世界を知らないだけなのかもしれない。

 

斉藤和義さんに「WONDERFUL FISH」という楽曲がある。以下に歌詞を引用する(作詞:斉藤和義さん)

 

――(中略)今度会えるのは いつになるだろう/今日も笑ったし 明日もそうするつもり/答えはいつも人の数ほど/交差点ではパレード 西へ東へと続いている/(中略)――WONDERFUL FISH いつだって君と泳ぎたい/幻の君の中 夢の中……

 

人も、熱帯魚も、何も違わない。この世界の外側を知ることはできない。哀れに思っても、ファンタジーを妄想しても、何をしても、人が何かに思うことに、意味などない。けれど意味のないことは、自由に思えることともいえる。自由は良くも悪くもなる。使い方に気をつけないといけないもの。

別の世界を想像しながら、願わくはお互いが、一緒に泳ぎたい、と思えたらいい。

 

(本日の東京の感染者数 八六八人)