イエス ノー 僕らは言う
今日もお休み。
今日も言葉について書いてみる。
今日は、言葉は言葉でも、合言葉。今でも使っている人は果たしてどれだけいるだろうか。
夜更けすぎ、忍者の格好をした人が屋敷に忍び寄り、戸を叩く。
すると小声で中にいる人がいう。
「山」
忍者の格好をした人が答える。
「川」
すっと、引き戸があけられる。
違うセリフをいった人は、入ることができない、というやつだ。
身の危険に及ぶようなことはしたくないし、「山」という言葉の合言葉が「川」だったらむしろ誰でも入れてしまう。当てずっぽうでいえてしまいそうな連想できることばだ。
これは、昔ながらの、類型的なもの。こんなものを使っている人はさすがにいない。
しかしそこの人たちしか通じない言葉は今もそこかしこにあふれている。もっと飛躍した、誰にもわからないけれど、彼と彼女だけがわかる合言葉もきっとある。
たとえば彼が「本棚に陽だまりがあるねこがきみ」と突然いった。
いわれた彼女は考える。
「どういう意味?」
「きみがかわいいということだ」
「なんだそれは」
ダメだ。余りにもめちゃくちゃであると、伝わらない。
でも、もしも、それを事前に、打ち合わせていたら、どうだろう。
たとえば、彼と彼女のこんな出来事を、僕たちが事前にきいていたとする。
彼と彼女は同じ部屋に住んでいる。二人は猫と暮らしている。部屋には隙間のある本棚がある。ある朝、彼と彼女は布団で寝ていて、彼だけが先に目覚める。彼は本棚の隙間で眠る猫を見つけた。朝日があたり、気持ちよさそうで、かわいかった。隣にいる彼女も、まだ寝息を立てている。その寝顔は猫の寝顔と似ていた。
この出来事を共有していたとしたら、先ほどの言葉の意味が、僕たちにはわかる。
ああ、彼は、あのときの猫と彼女を重ねているのだ。
言葉は、元の位置から遠くなれば遠くなるほど、詩や言語芸術に近い印象になっていく。
何をいっているのか、わからないけれど、何かが渡されたような気がする。
共有している人が少ないほど、それは儚いものに見える。泡となって消えてしまいそうな何か、知っている人にしかわからない合言葉、ぜひともわかりたい。
忍者なら、その扉を開けて、中にいれてもらいたい。
「海」といわれたら、何と返すのか。
「森」といわれたら、何と読むのか。
知っている人だけが、それをわかる。
小説にも、詩にも短歌にも俳句にも、映画でも、表現という表現が、自分だけにわかる合言葉が隠れている。作り手と、読み手の合言葉が、できあがる。
では日常に、そういう言葉があるだろうか。
バンド、サカナクションに「YES NO」という楽曲がある。この歌の「僕」を想像する。
「はい」や「いいえ」だけのやり取りで終わってしまう日々は心許ない。建前で生きている生活がやるせない。そんな中、何気ない、言葉を越えた合図によって、そのことを自覚してしまった。不安に駆られ、僕の心は揺れてしまった。
以下に歌詞を引用する(作詞:山口一郎さん)
――YES NO 僕らは言う/意味もないのに/心の奥に何か挟まりながら話し続けた/
合言葉代わりの合図が いつも通り僕を揺らして/
合言葉代わりの合図が いつも通り泡になって消える――
昨日の誰かのLINEにも、日常に見え隠れする言葉にも、あえて距離をおいてみるのもいい。今のこの思いを、こういう意味として、今のこの気持ちを、こういう並びにして、勝手に言葉を作って、誰かが貴方に何かを言っているのだとしたらどうだろう。
昨日の言葉も、明日の言葉も、「はい」や「いいえ」それさえも、想像力をかきたてる合言葉に、なりはしないか。
(本日の東京の感染者数 六三三人)