アオアルキルキア

不定期連載

ゾンビになれる

今日は出社した。

 

緊急事態宣言が一ヵ月ほど延長するようだ。

春が近づいている。一度目の緊急事態宣言は、昨年の四月。色んな人に「コロナが落ちついたら会おうね」「コロナが落ち着いたら遊ぼうね」というようになった。僕たちは本当に再会できるのだろうか。明日からまた僕は、在宅勤務になる。

ゾンビにならないように気をつけなければいけない。

人は簡単にゾンビになってしまう。

 

少し前に再開した在宅勤務では、仕事はまじめにやれたものの、仕事以外の自分のだらしなさに閉口した。外に出ないせいで、シャワーを浴びない日があった。コンビニまでたった五分なのに、そもそも外に出たくなかったので、冷蔵庫にあるものでなんとか食事を済ませて、足りないときはウーバーイーツを頼んだ。とにかく家に出ないでいいように用意や準備をすると、本当に一歩も外に出ないですんだ。その結果、三十代の体臭の恐ろしさを知った。人間は家にいるだけでも、日々、汚れていく。老廃物がたまり、朽ち果てていく。そのことをありありと痛感した。恐ろしい、人間の堕落。恐ろしい、僕の体臭(まだいうか)。

ほうら、簡単にゾンビになった。

 

この状態は、ブラック企業で働いていたときの過酷な状況下にも似ていた。自分が何のために働いているのかわからず、何のために生きているのかもわからなくなっていく。とても危ない。さすがに毎日シャワーは浴びていたし、まだいくぶん、若かったのだけれど、脳みそはたぶん、腐り始めていたのではないか。やめられて、本当に良かったと思っている。

 

また、初めての失恋も、人を簡単にゾンビにする。

はじめてできた恋人とは、春の公園を歩くだけでも楽しい。冬の白い息も嬉しい。いつも一緒にいることが当たり前の彼と彼女。パズルのピースがかみ合ったように馬が合う。ウフフ、アハハ。砂浜なんか駆けちゃって、「私を捕まえて」なんていってみたりして(類型がすぎる)。隣に並んでいることが自然で、周りの誰が見ていてもお似合いだ。口癖もうつるし、風邪もうつる。顔も似てくるし、思考も似てくる。まるで自分の一部みたいに感じるようになる。恋心は愛情にかわり、慈しみにかわる。

長い時間の共有が、ある日終わりを迎える。

自分の一部が、音を立てて、はがれる。ぽっかりと穴ができる。

何をしていても、どこにいても、思い出してしまう。道を歩いていても、ご飯を食べていても、二人でいたときの何もかもに重ねて、同じような毎日が過ぎていく。その間、自分がどんな自分だったかもわからなくなる。生きているのか、死んでいるのか、それさえも、見失ってしまう。

ほら、これも。

人間は、簡単にゾンビになれる。

 

バンド、ドレスコーズに「Zombie」という楽曲がある。以下に歌詞を引用する(作詞:志磨遼平さん)

 

――(中略)それでも死ねない ぼくはゾンビ!/

  ひとりぼっちになるまで 生き延びてしまった/

  そう あのぼくを殺したのは そんなぼくだった/

 

 なにもかも忘れた ぼくはゾンビ/

 かなしみも忘れた ぼくはゾンビ……――

 

この歌の‟ぼく“は、愛する‟きみ”を失って、「なにもかも忘れ」てしまった、と連呼する。生きているのに、死んでしまったようだと嘆く。だが、多くの人が想像するゾンビは、意識もなく、頭までも腐り、死肉をあさるだけのモンスターであり、一度死んでいるはずだ。この“ぼく”の連呼は本当ではなく、いっそのこと、ゾンビになってしまいたい、という願望ではないか。思えば思うほど、この“ぼく”は生きている。死ぬことができない。忘れることができない。ただただ、思い出の中のきみと徘徊し続ける。立ち直ることのできない喪失が、切実に歌われている。

明日から、少し在宅勤務が続くが、絶対に一日一回は外に出ることにする。少しでいいから外を歩くようにしたい。外に出るにはちゃんとした格好をしなければならない。清潔を保てるはずだ。失恋も何もない状態で、ゾンビにはなりたくない。

 

本日の東京の感染者数 三九三人